日本帰りの成功者
ハノイで働いていると、日本語が流暢なベトナム人によく出会う。大学で日本語を専攻していたという人も多いが、特に多いのが日本帰りの「元技能実習生」や「元留学生」だ。
彼らは日本で稼いだお金で、家や車を買ったり、起業したり、着実にアップデートしている。さらに不動産や資産運用で財産を増やしている若者も少なくない。
これがわずか数年前には、日本語センターで勉強する一介の学生だったのだから驚きである。ベトナムへ帰国後、日本語センターや日系企業で働く人も多い。彼らは日本での経験を生かし、次のキャリアを歩んでいる。
日本のIT需要を担うベトナムの若きエンジニアたち
ベトナムが送り出すのは肉体労働者だけではない。ベトナムは国策でIT人材の育成に特に力を入れているのをご存知だろうか。毎年、多くのハノイやホーチミンの理工系大学から若いエンジニアが市場に送り出されている。例えば、国内最高レベルの理工系大学、ハノイ工科大学では、日本語IT人材育成プログラム(HEDSPI)を実施して、多くの優秀なITエンジニアが日本企業やベトナムのIT企業で活躍している。
そもそもベトナムの若者は数学オリンピックで優勝するなど、理数系に強い一面も持っている。特に田舎から大学に出てくる若者は向学心が旺盛で非常に勉強熱心だ。
中には、日本でのエンジニア就業を経て、帰国後にベトナムで IT会社を起業する若者もいる。
一方日本では、深刻なエンジニア不足を抱えている。高まるIT需要に対し、開発者の供給が全く追いついていないという。経済産業省の出した指標によると、2030年には最大で79万人のIT人材が不足すると言われている。今、その深刻なIT人材不足解消の矛先に向いているのがベトナムのITエンジニアだ。
人件費の安い、海外のリソースを使ってIT開発を行うことをオフショア開発という。かつては中国で盛んに行われていたオフショア開発の中心は、今ではベトナムだ。実際、日本市場のアプリやソフトウェアの多くはベトナムのオフショア企業に委託して開発されている。
日本語のできるエンジニアは、ベトナムのIT開発企業において優遇される。日本語人材のいるIT企業では、日本語対応が可能で、日本の商文化を理解していることを売りにしている。今やベトナムのIT企業にとって、一番のお得先は日本なのだ。ハノイのコウザイ区にはベトナムのIT企業が多く集まり、「ベトナムのシリコンバレー」とも言われる。


社長のクオン氏は、ハノイ工科大学の日本語IT人材育成プログラムを経て、日本の大企業のエンジニアとして働いたのち、当時の大学の仲間とともに会社を立ち上げたのだそうだ。
2017年に5名でスタートしたこの会社は、現在では日本に法人を持ち、従業員120名へとコロナ禍においても業績を伸ばしている。エンジニアの大半はハノイ工科大学の出身だ。日本企業から依頼を受け、アプリ開発や業務システムなどを開発している。先端技術のキャッチアップが早く、これまで受けた案件の経験を活かし、自社プロダクトも販売している。日本でもまだ浸透していない、AIを搭載した店舗向けのシステムが好評だということだ。
ベトナムに「IT」のイメージはないかもしれないが、わずか数年で印象が大きく変化している。 欧米や日本企業からの下請けを引き受けている間に、ベトナムのエンジニアたちは着実に力をつけ、コロナ禍においてもベトナムのIT企業は軒並み成長を続けている。ベトナムにおいてIT人材は今や国の大きな収益源となっているのだ。
今後は単純労働だけでなく、IT分野においても日本はベトナムのリソースに頼らざるを得なくなっている。平均年齢が31歳のベトナムは、日本が喉から手が出るほど欲しがる、若いエンジニアが豊富にいる。
変わりゆくハノイの街から

ハノイの昔ながらの風景は失われようとしている。フランス統治時代の建物や、レトロな趣の集合住宅は老朽化を迎え、あちこちで取り壊しが進んでいる。街路樹が木陰を作り、個人商店が軒を連ねる、味のある通りは、今では取り壊されて平地になり、バイパスの大通りに様変わりした。
ハノイは世代も変わり、人々の価値観も変わってきた。日本に対する見方も昔とは違う。しかし、変わらないのはこの街の熱気だ。どこへ行っても若者と子供達で溢れかえっている。人々のエネルギーが熱波となり、街全体に活気がみなぎってくる。そこに、かつての日本の原風景を重ねる。
この風景はいつまで見られるのだろうか。この街に降り立つたびにそんなことを想う。
