目次

〔長文エッセーです。以下の内容となっています。〕

はじめに – 2016年までのミャンマーの歩み (土森)
● 急激に変貌するミャンマー

タイ・チェンマイ在住、赤尾牧男氏のミャンマー探訪記
● 筆者・赤尾牧男の自己紹介
● 赤尾牧男のチェンマイ生活
● 1994年 最初のミャンマー訪問 – タチレクとチェントゥン
● その後 – 1994年の最初のミャンマー入り以後の後日譚
● 2012年 最初のヤンゴン訪問 見聞録
● 2014年 第二回目のヤンゴン訪問 – 2年でヤンゴンは大変化
● ヤンゴンの見所
● ミャンマーの印象

あとがき (土森)
あとがき (赤尾 2016年秋 チェンマイにて)

はじめに – 2016年までのミャンマーの歩み (土森)

戦後初期、昭和20年代―30年代生まれのわれわれにとってミャンマーと言う国は、『ビルマの竪琴』や、映画の『戦場にかける橋』のタイのカンチャナブリーの泰緬鉄道、あるいは戦時中の日本帝国軍の無謀なインド侵攻の『インパール作戦』のミャンマーのジャングルの中の行進などで親しみ間のある国ですが、これまで東南アジアの中でも孤立した形で、軍事独裁政権のもと西欧諸国から経済制裁を受けて、日本にとって『遠い国』と言う存在でした。現在、スーチー政権が誕生後、大きく世界の注目を浴びて、アセアンの最後のフロンテイア市場として変化が始まっています。

 急激に変貌するミャンマー

ミャンマーはインドシナ半島の西端にあり、北の中国と西のインドとバングラデシュの中間と言う戦略的に重要な位置を占め、タイとも1800キロに渡る長い国境を接しています。

人口は2015現在5,200万人。アセアンではタイの6,500万人に次ぐ5位で、7割がビルマ族、残りは130以上の少数民族となっており民族融和の大きな課題を抱えています。北東部で中国系コーカン族武装組織、北部でカチン族の独立軍との間で紛争が続いています。またバングラデシュとの国境地帯は、イスラム系のロヒンギヤ族が仏教系ビルマ族と対立して、国外に逃避した者が難民となる問題も続いています。

ミャンマーは 1948年にビルマと言う国名でイギリスから独立。しばらくは民主政権の下で東南アジアでは先進国として君臨していました。当時のタイよりもはるかに経済が発展して、シンガポールは、当時の英国が作った首都ラングーン [現ヤンゴン] を都市開発のモデルとした、と言われています。

1968年にクーデターにより軍事政権となり、閉鎖的なビルマ式社会主義を採用してから発展は停止しました。1988年には民主化運動がおこり、リーダーとしてアウンサンスーチーの名前が世界に知れ渡ることとなりました。同じころ、軍政はビルマ式社会主義を放棄して開放的な政策も試み、翌1989年に国名もミャンマーと改名されました。

しかしスーチー氏の自宅軟禁など民主化運動の弾圧が続けられた結果、西側諸国から経済制裁を受けて、開放政策は頓挫することとなり、再び閉鎖的経済に逆戻りしました。そのミャンマーは2011年、軍事独裁政権のボスのタン・シェ議長が引退し、その片腕であったテイン・セインが大統領に就任して民政移管が始まり、世界経済への門戸を開きました。

今年2016年の総選挙でほぼ民主化された新政権が誕生。米国の経済制裁も2016年にほぼ解かれて、特恵関税の適用も再開され、アジアの最後の経済フロンテイアとして世界中からの投資も始まり、これまで半世紀に亘り停滞した経済の再興が急激に進みつつあり、またタイと並ぶ仏教の遺跡群を持つ観光地としても注目を浴びつつあります。

タイ・チェンマイ在住の赤尾氏からの見聞録を中心にミャンマーのいろいろをご紹介いたします。

赤尾牧男氏「ミャンマー探訪記」の関係地 地図

タイ・チェンマイ在住、赤尾牧男氏のミャンマー探訪記

筆者・赤尾牧男の自己紹介

さて皆さん、ミンガラバー&サワデイークラッブ(ミャンマー語、タイ語でこんにちは)。

小生赤尾牧男と言いまして、大学およびノリタケにて土森氏の1年後輩にあたります。職歴はノリタケ以降、日本メールオーダーやトッパン・ムーアや企業用ビデオ制作会社を渡り歩き、最後は独立ビデオ制作業を経て、4年前に引退。

20余年前にタイとミャンマーの国境の町のメーサ-イで知り合った泰族の娘(アコイと呼んでいますので、以降アコイと出て来たら家内のことです)と結婚して子供二人とともにチェンマイに在住して、アコイに酒屋をやってもらい悠々自適の引退生活を送っています。

アコイは泰族の支流のタイルー族であり 姉はミャンマーで華人系ミャンマー人と結婚してヤンゴンで事業を行っています。そんな関係で1994年以来何度かミャンマーを訪れており、皆さんの観光旅行では味わえないミャンマー見聞録を以下長々とさせていただきますので、腰を据えてお読みいただければ幸いです。

赤尾牧男のチェンマイ生活

家族と家

まずは私の規則正しいチェンマイ生活を少しご紹介します。

私の家族: 左から家内のアコイ 私 娘のマキ(チェンマイ大学生) 息子ケン
チェンマイのわが家と酒屋

8年ほど前購入した我が家より、店舗購入代の方が高かったので、小生の通帳は空っぽになりました。もう補充はありません。この我が家から、ムーバーン[ヴィレッジの事]のゲートまで700メートル、国道1317号線を越えると、正面はこの酒屋があるシーアロン市場です。アコイはほぼ毎日、この店を朝7時過ぎに開けて夜8時に閉めます。

そのために我が家の生活は極めて規則正しいものになります。朝は、アコイは勝手にバイク(写真に写っている)で、店に行ってしまいます。小生は少し遅れて、歩いて店に行き、そこで、コーヒーとトーストの朝飯を食べて、パソコンをいじくります。昼飯も夕飯もこの店の方で食べる日課となりました。

店は奥に長い構造で、一番奥に台所があり、一人で店をやるのは不便で、かつ不用心なので、小生も出勤するわけです。しかし、店の売り上げにはほとんど貢献できません。客との対話ができないからで、客の方も話の通じない日本人よりもアコイの方がいいでしょう。POSで運営するセブンイレブンと違い、客とのコミュニケーションが命です。

店は3階建てで、3階は寝室とシャワールームがあり、泊まることもできるのですが、目の前の道路を通る車の音がやかましく、我が家の方が静かなので、夜は帰宅します。

家内アコイの料理

さて、家内のアコイの料理は何かと言うと、時たま出身地メーサーイのタイルー食が出ますが(ヌードル系が多い)、多くは彼女の創作手料理で、小生には比較すべき他人の女房の手料理がなく、タイ風なのか、チベット風なのか、ウズベキスタン風なのか論評の仕様がありません。しかし、日本人の私にも結構行ける味であり、毎日まあ満足して食べさせてもらっています。ありがたいことです。文句を言うと罰が当たります。

この民族料理は面白いテーマなのでまた別の機会あれば寄稿いたしたましょう。

今回は余興に、ルーの「来客用」食卓を紹介します。メーサーイに里帰りした時に、近所の人たちと一緒に食べたものです。多分ミャンマーのタイヤイ族(タイルー族とほとんど同じ人々だが、ミャンマーのシャン州に居住している)の食事も同じでしょう。タイ東北部のイサーン料理とどう違うのかは文化人類学的に興味あるところです。

  1. 生きた川エビを激辛汁に放り込んだもの。エビが溺死するわけがないので辛さが原因でしょうか、死にました。
  2. 蟻の卵。以前食べたので経験済みで、今回は遠慮。
  3. 蜂の巣と子。蜂の子は体験的挑戦
  4. ゼンマイの類
  5. 竹の子
  6. 1と4の間の物体は恐らくミンチポーク

小生が一番多く口にしたのは5の竹の子(苦かった)。他は激辛で手も足も出ず。

チェンマイの医療施設

われわれ外国人にとって病気の場合の医療対応が一番の関心事ですが、タイは東南アジアでは比較的医療が進んだ国で、チェンマイにも大型の総合病院が5、6あります。チェンマイ大学医学部病院には大阪大学の医学部卒の日本語ペラペラの医師が数名おり、チェンマイ在住の日本人[約5,000名]は重宝しています。チェンマイ在住の日本人のうち約3,500人が私のような引退者で、ここで退職者ビザをもらって年中温暖な気候の中で余生を楽しんでいる人も多い。

診察や治療は、日本のような健康保険は無いので治療費は高いために、日本のように総合病院の外来待合室は健康に自信のある元気なお年寄りでムンムンしているような光景はありません。

但しチェンマイ在住の日本人は、現地で払った治療費は日本の健康保険や海外旅行保険でほぼすべて還付されます。

駐車場も駐車スペースでこまることは無く、広々とした待合室で、比較的早く順番がきます。面白いのは、健康状況次第で「それでは、2、3日入院して静養しますか」と「提案」され、病室(基本的に個室)をあてがわれます。医者付きホテル、といった感じです。私もごく最近 白内障の診断を受けました。訳がわからないまま家内によって手術のアポが入れられて あっという間の手術となりました。

以前家内のアコイの故郷の町、メーサーイに住んで居た時、近所の人に「これからチェンラーイ(行政府の置かれた都市の名前)に行くから一緒に行こう」と誘われました。

みんな食べ物を用意して、ピクニック気分でピックアップトラックの荷台に座上して、1時間かけて行き着いた先は、総合病院。聞けば近所の人が胃を手術したお見舞いだったのです。

病室は広い個室で、ソファも冷蔵庫もあり、そこへみんなどやどやと入り、ひとしきりタイ語で「なんや、元気そうやないか」「どこを切ったんや?見せてみ」みたいなことピャピャ言った後に、やおらシートを床に広げて、持ってきた食べ物と食器を並べて、日本の花見席のような食事会を催しました。見舞いされた本人は身動きも出来ず、ベッドに横たわったまま。時々話に相槌を打っては、痛いのか呻いておりました。別に病院側に怒られることも無く、無事お見舞い食事会は終了しました。これがタイランドであります。

薬も、種類によっては日本のように医者の処方箋がないと薬局で買えませんが、一度病院にいって処方してもらった薬の袋を薬局に持っていくだけで、好きな量を買うことができます。(ほとんど処方箋の意味が無いが、これもタイランド)。しかも大病院の半額近い値段で! 薬は全く同じで、血圧もコレステロールも日本製が多いようです。(処方箋を不要とする薬では、欧米の会社のインドネシア工場やマレーシア工場製が多い)。

総合病院では、医者はもちろん、看護婦から事務員、果ては食堂の売り子のネーちゃんまで、英語が通じます。エレベーターホールでは、宝くじを売っているコーナーも見かけました。民営の総合病院では若い女医が、ストローをさした大きなソフトドリンクのカップを手にして歩いていました。

前置きが大分長くなりましたが、それでは1994年、メーサ-イから最初のミャンマー訪問見聞録と参ります。

1994年 最初のミャンマー訪問 – タチレクとチェントゥン

タイ側メーサーイとミャンマー側タチレク

タイ最北端のチエンラーイ県の、ミャンマーとの国境の町メーサ-イから、タイ側のイミグレを通り橋を渡ると、そこはミャンマー連邦のシャン州の町、タチレクです。この二つの町を分ける幅10メートルほどのメーサーイ川。この川は30キロほど東進して有名なゴールデントライアングルで大河メコン川に合流。 このメーサーイとタチレクの二つの町はもともとタイ北部ラーンナー王国のタイ人の一つの町だったのが、イギリスとの交渉でこの川を境にタイとミャンマーとに分離された、という歴史を持っています。

タイは日本と同じ車は左側通行、ミャンマーはアメリカと同じく右側通行。日本が英式で、長らくイギリスの植民地だったミャンマーが米式なのは面白いことです。

タチレク側の人々は、メーサーイと同じタイ族が主体で、ビルマ人とインド人も見かけられますが、生活は基本的にはタイ側のメーサーイに準拠して、通貨もミャンマーチャットよりはタイバーツの方が流通しています。最近はタチレクのほとんどの人が持っている携帯電話もタイの番号と同じで、国際通話の必要はありません。以前お邪魔したタチレクの泰族の家には、タイの家には必ず飾ってあるタイ国王の写真が飾ってありました。

アコイはメーサーイの出身なので、私達は時々この町に里帰りしますが、町にはバンコクの「偉いさん」達が最北の国境を「視察」するために、しばしばワンボックスカーを連ねて、パトカー先導でやってきます。ワンボックスカーの中は覗いたことがありませんので、実態は分かりません。一行は国境近くのメーサーイ警察に入って行きます。

この橋の真ん中が国境、別段矢印があるわけでもなく、そこは適当にクロスして車線を変更する。
向こう側もこちら側と同じ泰族の地。言葉はタイ語で通貨もバーツが主流。
流れているのはメーサーイ川。今は渇水期で、雨季には時々氾濫する。右手に流れて行って、ゴールデントライアングルでメコン川に合流。

さて、そういった日は勤務評定上、地元メーサーイ警察も張り切って仕事に励みます。町の大通りにはたくさんの警官が「出動」して、パトロールに精を出します。国境の通関士も同様に、普段以上に厳しく物品の往来をチェックします。

普段はどさくさに紛れて適当にやれば通過出来た国境の橋も、この日ばかりは監視が行き届いてしまい、ミャンマー側からの外国たばこなどやその他の品物を、関税を払わないで運び込んで日銭を稼いでいる人々には商売あがったり。しかし、橋の上流2、3百メートルでうまい具合に浅瀬があり、渇水期はいよいよ水量が少なくなります。当然、人々はこの恵みの浅瀬を忘れたりすることは無く、警察も忘れていませんが川は少しカーブして橋から見えなくなり、この暑いのにわざわざそこを覗きにいく警察官はいません。メーサーイに用事のある人はミャンマー側からジャボジャボと川を渡り、タイ側に上陸します。手ぶらでこの渡河を楽しむ暇人は居ません。何がしかの物品を抱えています。

メーサーイの大通りをぶらついていると、顔見知りのインド人の青年が歩いているのが見えました。ミャンマー側から「用事」で来ている男です。彼のシャツの前が膨らんでいます。一目見て何かそこに隠しているのが分かります(分かる時点ですでに隠していることにはなりませんが)。しかも、なんとズボンが太ももの高さまで濡れています。どこを通ってきたか日本人でも分かります。

その日は太陽が強烈に照り付け、大通りの一方の側は建物による日影が多く、反対側はパラソルで日差しを防いでいる程度です。この日ばかりは任務第一主義のメーサーイ警察の警察官も、さすがにほとんどが日影側でパトロールや立哨をしています。

くだんのインド人青年も、いつもの習慣なのか日差しを避けて日影側に歩いていきました。「そっちはやばいんじゃないの」と思わず叫びそうになりました。案の定、警官に呼び止められています。

恐らく警官は顔見知りだったでしょう。「こら、そんなかっこで俺の前を通るな!」と言った感じでしょうか。いくら顔見知りでもこれだけの状況証拠満載では飛んで火に入るインド人。警官も今日はちょっと賄賂をポケットに入れてもらい目をつむることはできません。近くにバンコクから来た警官が見ているかもしれない。しばらくして、このインド人は同じように失敗した仲間数人と一緒に警察のトラックの荷台に乗せられて警察へしょっ引かれていくのが見えました。

せめて外国たばこの包は懐に隠さず、バッグか何かに入れておき、せめてズボンの濡れが乾くまで待っていれば、せめて道路の反対側、日差し側のパラソルの車道ホッピングで前進すればつかまらずに済んだのにと、アカ(オ)の他人ながら同情ひとしきり。

メーサーイからミャンマー・シャン州のチェントゥンまでの短い旅

タチレクからのチェントゥン・ツアーを発見

さて、このレポートは20世紀も終わりに近づいた1994年ごろ、まだ軍事政権が支配していたミャンマーのシャン州のミャンマー北部までの短い旅行記です。チェントゥンの町は北部シャン州にあり、中国との国境に近いところです。住民はほとんどがタイ語系のシャン族すなわちタイヤイ族です。

私は日本で仕事をしていた時、タイにはもともとビデオ制作の仕事仲間であるK氏とよく訪れていましたので、K氏も頻繁にメーサーイに一緒にやって来ました。高台から隣国ミャンマーのタチレクの町を眺めたり、メーサーイ橋のたもとで行きかう多種多様の民族を観察したり、時にはタチレクそのものに入ったりしました。

外国人は日帰りの条件で、タチレクの町の中であれば入境できました。入境の際に、パスポートをミャンマー入管に預けて、引換券をもらって入りました。夕方6時に戻ってこなければパスポートは没収となります。また反政府ゲリラや山賊も活動している地域なので、外人観光客がネギをしょって、タチレク郊外にまで出かけて行ってカモになることは考えられません。そのために、タチレクに入れば監視されるわけでもなく、文句を言われることはありませんでした。すべて自己責任と言うわけです。   

問題は、毎回タチレク入境手続きが変わることです。ミャンマーのシャン州ローカル政府の意向が変わったり、国境付近の治安状態が変化したり、当時は首都であったヤンゴンの政府からの指示があったりしたのでしょう。提出書類や写真や入境税がコロコロ変わりました。

ある日、K氏と国境の税関付近を散歩していると「Kengtung 3 days tour」と言う貼り紙を見つけました。国境を股に行き来している泰族向けのツアーは考えられないので、アコイに「日本人も行けるのか」と調べさせるとOKだという。当時は首都ヤンゴンですら行くことが難しい時で、ましてや陸路国境を越えて100キロ彼方まで入るだけでも面白そうでした。チェントゥンにはアコイの知り合いもいっぱいいるので困ることもなかろうと、参加することにいたしました。

まず入管を通ってタチレク入り

他の参加者はいない、個人仕立てのミニツアーで、メンバーは小生、K氏、アコイ、アコイの友人とガイド(タイ人とアカ族の混血の男性で、タイ語、ビルマ語、アカ語と英語が可能)及び運ちゃんの6人でした。

アコイはタイのIDカードだけでなくミャンマーのIDカードも持っています。二重国籍保有の様なものです。彼女の話によるとタイ人がミャンマーのIDを手に入れる、すなわち「購入する」のは簡単至極で、しかもバカみたいな値段だそうです。逆にミャンマー人がタイのIDを手に入れる、すなわちタイ国籍を得るのは困難極まりないとのこと。

アコイ達はツアー参加者ではなく、一足先に橋を渡り「普通に」タチレクに入ってしまいました。

小生とK氏とガイド君は車で橋を渡り、タチレクの狭い入管の部屋で手続きをして、米ドルを兌換券に変えました(ミャンマーの辺境のこんなところでも兌換券でした!)。多分US$200ぐらいだったと記憶しています。貴重なUSドルの現金を扱うので、ミャンマーの兵士が映画に出て来る鉄パイプを溶接したような古いイギリス製の自動小銃を持って隣で見ています。賊が侵入し、撃ち合いになったら、あのオンボロ銃では兵士自身も含めて部屋に居る全員に命中するのでは、と心配になりました。

入国ビザも現場発行の簡易ビザでしたが、パスポートはタチレクの入管に預けての入国です。期日以内に必ずタチレクの出入国管理事務所に戻ってこないとパスポートは没収されるシステムで、そうなればミャンマーの田舎で一生を終えなければならない羽目になります。或いは地元の長距離バスで遠路ヤンゴンまでたどりつき、日本大使館を訪問して帰国する。まあパスポートなしでヤンゴンまでたどり着ければの話ですが。

土森 注: メーサーイは、土森も南山大学や四日市大学、名古屋市立大学、或いは筑波学院などの大学生の研修旅行の引率で、この国境の町の見学で何度も訪れています。

この町は、中国雲南省からメコン河の交通ルートで、毎日中国からの食料品・雑貨品が大量に運び込まれて、タイやミャンマーへ販売される集散地として、商業都市の役割を持っています。国境の橋の近くは中国からの安もの日用品、食材などの物資が並ぶにぎやかな商店街です。私達はタイ側の橋のたもとにある大衆タイレストランでいつも昼食を取りながら、10メートル程川を隔てた向かい側のミャンマーを眺めます。

細い川の真ん中が国境なのですが、両国の子供達は裸になってこの川に飛び込んだりして遊んでいます。両国側共に警官や軍人が見張っているわけでもなく、国境と言う場所だとは感じない不思議な光景です。

この町の商店街を上がって山の上のお寺の展望台には ミャンマー側ににらみを効かせているバカでかい黒いサソリの像が有ります。ここから眺めると、先の写真にて紹介したごとくこの町の真ん中を川が走り、タイ側とミャンマー側に分離されているのが良く見えます。ミャンマー側には金色のパゴダが多数眺望できます。

このメーサイから国境沿いを東へ行き、メコン川を挟んでタイ、ミャンマー、ラオスの3ケ国が接するゴールデントライアングルの街、メコン川沿いのタイの最古の都チエンセーンの都の遺跡など、ラオス、ミャンマーとの国境地帯ののどかな農村風景をめぐる一日の旅はとても趣があります。日本からはチエンマイに飛び、バスでこの地方を訪れるか、あるいはチエンラーイ空港に直接飛んで行く方法もあります。 

チェントゥンへ出発

タチレクからチェントゥン(Kengtung)まで、100キロちょっとの道をオンボロワンボックスカーで走りました。道はがたがたで、猛烈に砂埃が上がり、暑いのに窓は開けられません。クーラーはもちろんなし。予備のガソリンを入れたポリタンクを車内に積んでいたので、車内にガソリンの臭いが充満し、あまり激しく揺れるので、ビデオカメラのブレ防止装置が壊れるほどでした。

周囲は2000m級の山々、その峰を越えた50キロ先が中国雲南省。道路は現在では舗装されているはずですが、当時は工事が一部行われていました。タイ寄りの部分では、タイの業者が重機を使っています。片側通行とか面倒くさい方法は取らずに、交通を遮断して、2時間ほど作業をします。その間、車は待っています。それほどの交通量でもないので、延々長蛇の列にはなりません。

タイでもそうですが、ここでもすでに簡単な「屋台」が進出し、水や食べ物を売っています。屋台は工事現場とともに移動するのでしょう。奥地に入ると、作業員の一団が道路工事をしていましたが、ガイドが「カメラを向けたり、顔を覗き込んだらだめ」、と注意します。凶悪犯か政治犯の囚人による作業だったからです。

暮れなずむチェントゥンの町に到着しましたが、その日は多数の中国人が国境を越えてやってきたというので、ホテルは満室。お寺も泊まれません。結局アコイの知り合いの家に泊めてもらいました。居間に雑魚寝でしたが、停電が頻繁に起こり落ち着けません。今も、ヤンゴンでも停電は日常茶飯事で、ミャンマー旅行には懐中電灯が必需品です。

チェントゥンは落ち着いたたたずまいの町で、もちろん背の高いビルは見当たりません。町の中央には、池にしては大きすぎて、湖にしては小さすぎる、ナウントン湖と言う小湖があります。家々は淡い水色やグリーンを使った配色が多く、イギリスの統治時代の残片を感じさせます。

近くの山のお寺へ

泊めてもらったアコイの知り合いたちから、山のお寺へ行こうとの申し出がありました。

泊めてもらったので素気無い返事もできずOKを出すと、小型トラックがやって来て、近所の人たち全員が乗り込んできました。どうやらメーサーイから持ってきた予備のガソリンが供出されたようです。みんなといっしょに荷台に乗り込んで、炎天下、つづら折りの山道を登って行きます。ミャンマーは山の上に寺を作るのが好きなようで、山の上には転々とパゴダも見えます。パゴダを目印に行くと、旅人も道に迷わないということです。

寺は、結構大きな寺で、参拝客も集まっていました。タイよりもミャンマーのお坊さんは英語をしゃべります。どこから来たかと、聞かれましたので「ジャパン」と答えました。こんなミャンマーの奥地の山の上に訪れる日本人は珍しいだろうと、相手の驚きを期待していたのですが「あそう、それはご苦労さん」と言う程度で、拍子抜け。我々が初めての日本人ではなかった様です。

寺の向かい側は、ミャンマー軍の駐屯地のようで、その塀の横を小川が流れています。見ていると現地人がシャツを脱いで洗い始めました。と、突然なかから兵隊が1人飛び出てきて、どなりながら細い竹の棒でこの洗濯者を殴り始めました。

別に地雷でも埋めて居たわけではなく、洗濯していただけなのにひどいことをするなあ、と見ていると、その兵隊が今度はこちらに向かってきました。やばい、と思いましたが時すでに遅し。何か言っています。傍に居たアコイ達が「ジャパン、ジャパン」と必死で説明しています

ビルマ語でも日本はジャパンですので、多分日本の観光客だ、と言っているのでしょう。その兵士は「外国人でも殴ってもいいのか?もてなすべきか?」けげんそうな顔をして、対応に苦慮している様です。こんな辺ぴな駐屯地では外国人の観光客や日本人の扱い方のマニュアルがなかったのでしょう。

その間に、我々は足早に待たせてあったトラックに乗り込みました。動きだした車の荷台から見ていると、件の兵士がこちらに向かって何か言っています。聞こえないふりをして、トラックは全速力で山を下りました。あそこで捕まっていたら、囚人グループと一緒に道路工事をさせられていたかも。

チェントゥンの町に戻って

夕食は中華レストラン。兌換券が通用したからです。今でも地方では中華レストランが一番まともなお食事処の様です。ここでも停電に悩まされましたが、自家発電のおかげで何を食べているのかは分かりました。食事を終えて停電の暗闇の表に出ると、宇宙の壮大さの中にいると言う畏怖感を覚えるすごい星空が頭上一杯に広がっていました。

翌日は、兌換券では屋台食べ歩きもままならないので、ガイド君に頼んで、「良いレート」の両替屋を探してもらいました。当時、ミャンマー通貨のチャットを公定レートで両替するのは愚の骨頂で、「闇」を使うのが常識でした。あまり一般化しすぎて、もはや「闇」とは言えない状態でした。ガイド君はどこかに出かけ、1時間後に戻ってきました。闇の両替屋が見つかったとのこと。どんないかがわしい所かと半分ビビりながらいった所は、驚くなかれ「ミャンマー農民銀行」の看板を掲げた普通の銀行でした。「あらら?」と困惑しながら1室に通され、両替が始まりましたが、相手のビルマ人は口に指をあてて「しー」と言う仕草をします。よそに言うな、という意味です。

当時ミャンマーはインフレが激しく、出てきたチャット紙幣はとてつもない量で、一定量の束を巨大なホッチキス止めてありました。しかも、汚れきっています。メモ用紙にしたのか、何か書きなぐった紙幣もあります。「うわー、何ですかこれは!!」と身を引いてみていると、ガイド君が「数えろ」と言うのです。数えるより、目方で計った方が正確だと思うなー。よく考えると、公定レートがいくらなのかも知らないし、チャット紙幣の知識もありません。とにかく、触りたくなかったのですが数えることにしました。汚れていて指がすべります。

油断すると、無意識に唾を付けるために指をなめようとします。それを思いとどまるたびに数えた枚数を忘れそうになります。もういい加減嫌になって、どうせ損しても5円か10円ぐらいだろうから、面倒臭いし、銀行を信用して適当に数えて「OK」を出しました。

土森注: 1994年時点でも同じようなレートだと思われますが、ミャンマーは2016年現在、公定レートはUS$1.00=5.2チャット。さらに公認(??)市場レートが US$1.00=450チャット。赤尾さんが闇と言われるところで交換した市場実勢レートは US$1.00=1250チャット程だと思われます。訳がわからん!! 

つまり市場での実際の交換レートは 日本円 1円=約12チャット。したがって赤尾さんが100ドルを交換したとするとおそらく11万から12万チャットの紙幣になったと思われます。初めてミャンマーを訪問して知らない外国人観光客は、公定レートで交換する人もかなりあるのかな? 実勢レートと公定レートが240倍も異なる!! ばかばかしい! しかし、現在は公定レートも市場レートに収斂していると思われます。

中国南部の田舎を想起させるチェントウンの街並

チェントゥン市場

チエントゥン市場。子供に乳を与えながら商う母親(写真出展:Rangoon Revealed)

チェントゥンの市場に行ってみました。商品や食材の豊富さには目を見張るものがあり、タイの市場も負けるではないかと思う規模と盛況ぶりでした。ミャンマーの軍事政権が倒れない理由がなんとなく分かりました。つまり、民衆は少なくとも食料と、日用品には不自由していないのです。

同行した同僚のK氏が、ある商品を指さし笑っています。硝石と硫黄と木炭です。ミャンマーでは黒色火薬も市場で購入できるのです。これでは反政府武装組織はどこでも自由に武器弾薬が入手できると言うことだなー。これではいくつかの北部の反政府武装組織を抑えようとしてもどうにもならない、と心配になりましたが、ダイナマイト取り扱い免許も持っているK氏が言うには、現在の武器は、火をつけなければ爆発しない黒色火薬はあまり使わないので、市場で売られている火薬はおそらく鉱山の発破用か、開墾に使うのではないかとのこと。

市場の表では、ビルマ族やインド人が屋外のテーブルにたむろして紅茶を飲んでいました。彼らが飲むのはミルクティーですが、おそろしい量の砂糖を入れています。カップの底に沈殿した砂糖で、スプーンも立つのではないかと言う感じでした。

ビルマでは紅茶はカップから飲まずに、一度ティーソーサー[受け皿]に移してすするようにして飲む、と耳にしたことがありましたが、それを目の当たりにした時に一種の感動を覚えました。

2日目は長屋形式の簡易宿泊所に宿泊できました。

タイ族の火葬

チェントゥンの郊外を走っている時に、一面の水田の向こうで炎が吹き上がっているのが見えました。ガイドに、「あれはなんや?」、と聞いたところ、火葬の最中だとのこと。おそらく野辺の送りで、人々が死者を担ってあそこまで運び荼毘に付したのでしょう。戦前の日本(奄美、琉球は除く)でもごく普通に見ることができた光景だったのでしょう。

現在のタイでも、霊きゅう車という専用のヴィークルは無く(皆無ではないでしょうが)、中型トラックの荷台にキンキラキンにお飾りした棺桶を載せ、そのあとに関係各位の車が続き、ゆっくりと焼き場まで進みます。早く走ると、慣れない棺桶内の仏様が車酔いを起こすからでしょう。

焼き場では、棺桶(個人の写真が飾ってある)の前で関係各位が「記念撮影」をして最後の別れを行い、棺桶がオーブンに運び入れられるやいなや、参列者は潮が引くようにあっという間に帰っていきます。

えっ、これでおしまい?帰っちゃうの?お骨は誰がひろうの?食事しながら待たないの?と独り日本人が心配します。心配無用、明日に誰か手の空いたものがとりに来るから、とのこと。おそらく焼き場の担当者が骨を拾い、骨壺に入れておいてくれるのでしょう。しかし、心配は当然続きます。「その骨はどうする?」。次の答えが、本来の仏教の立場を表しています。「家によっては、庭に埋める場合もある。畑や川にまく場合もある。寺の境内に置いてくる場合もある」。

死後無に帰するお釈迦様の教え通りに、このミャンマーのシャン州やタイでは墓がありません。(もし墓があったらそれは中国系の人の墓です。)これ以上心配する続きもありません。したがって、四十九日だ、四十八手だ、へったくりだというのもありません。

メーサーイへの帰り道

最終日はメーサーイに向けて出発。行きに積んできたガソリンはお寺参りに供出しましたので、給油をして行かねばなりません。ガソリンスタンドといっても、ガソリンを入れた一升瓶が並んでいるだけです。

とにかく出発して、再び山道を行くと、エンストしました。運ちゃんがエンジンカバーを開けて、エンジンをいじくっています。再スタートして、10分ぐらい走るとまたエンスト。同じことを繰り返して、その内「そろそろエンストするぞ」と予測できるようになりました。そのたびに運ちゃんはキャブレターに詰まったゴミをつまようじの先で除去しています。メ―サーイからの行きに、なぜタイのガソリンを持って行ったのかやっと理由が分かりました。

艱難辛苦の旅路の果てに、夕方タチレクに戻ってきました。タチレクの入管でパスポートを奪回するのに成功し、時計を見ると5時半を回っています。

タイのゲートもミャンマーのゲートも門限は夕方6時なので(2016年現在は夜の9時までに拡大)、ゆっくりと歩いて行きました。ミャンマー側のゲートは空いているので安心して橋の上に出ると、向こう側のタイのゲートは閉まっているではないですか。閉まっているのを見て「しまった!」。両国の時差が30分あったのを忘れていました。タイ側の人間が腕を振っています。

疲れているのに全速力で橋を駆け抜け、鉄柵にたどり着けば、そこは親切にも小さな扉がついていまして、潜り抜けてかろうじてタイに戻れました。逆にタイ側の門限に遅れたタチレクの人が我々の横をすり抜けて通過して行きました。

人間様は少々遅れても通過できますが、車やバイクはアウトになります。それにしても時差があるにも関わらず両端の門限時間が同じ6時と言うのはひどい話で、事実上のミャンマーの門限は5時半ではないですか!

タイ側に戻り、煌々と灯るメーサーイの街路灯をみて、ほっとして別の世界を感じた次第です。

その後 – 1994年の最初のミャンマー入り以後の後日譚

これ以降20年も飛んでしまうのですが、冒頭の自己紹介で現在のチェンマイ在住と、20年前の間が空白では謎の人物となってしまいますので、簡単に埋めると-

知り合って結婚した当時か弱そうに見えてしまった家内のアコイのために、彼女が育ったメ―サーイに平屋の簡単な家を建ててやりました。日本人がタイのこの町で生計を立てるのは無理で、日本からせっせと送金することになります。この辺は、ゴマンといる「哀しい旅路の果て」を向かえるうぶな日本男性の典型的なパターンでしたが、どうやら小生は定形外だったようで捨てられもせず、日本からのメーサーイまでの通い夫をやめて、4年前に子供の将来の教育を考えてチェンマイに家を買って移住しました。

最近はメーサーイに行ってもタチレクには入境していません。民主化が進むと、国境手続きも「まとも」になり、以前のようにサンダル履きで書類1枚ぶら下げては入れない様です。チェントゥン・ツアーも恐らく短期間で終了したはずで、その後貼り紙も見ません。宿泊場所も確保していない、観光コースも設定されない様ではツアーとしては不完全で、外人観光客も集まらずペイしなかったと思われます。しかも、その後国境付近の武装勢力が、麻薬の利権か民族自治独立の大義のためか、ミャンマー国軍と衝突したりして不安定な時期もありました。やはり外人観光客は空路ヤンゴンからミャンマーに入ることになります。

2012年 最初のヤンゴン訪問 見聞録

ミャンマー民主化スタートでヤンゴン訪問

小生は、民主化がスタートしたばかりの2012年と変貌を急激に遂げて行く2014年11月の2度、ヤンゴンを訪問しています。訪問者から見れば古き良き時代が急激に消滅していくと言うノスタルジーを覚えるわけですが、ミャンマー人から見ればどんどん発展していくと言うことになるのかもしれません。

ミャンマーの民主化は2011年3月に、軍事独裁政権のボスであったタン・シュエ議長が引退して、その片腕と称されたテイン・セインが大統領に就任してから始まりました。スーパー保守派の片腕が民主化を始めた理由は謎の一つです。

小生が初めてヤンゴンを訪れたのは民主化がスタートして1年後のことでした。民主化スタートの3年とちょっと前にはヤンゴンで日本人ジャーナリストがデモを取材中に国軍に射殺されていますので、このころのミャンマーは激しくうねっていたといえます。

2012年に、まだ小生が東京でビデオをシコシコ作っている時に、香港に事務所を持つ知り合いの日本人が、ミャンマーと商売のきっかけを作りたいので同行してくれと頼んできました。アコイの姉は現在ヤンゴン在住ですが、メーサーイでもチェンマイでもたびたび会っています。しかし、ヤンゴンの一家まとめてミャンマーの現地で会ったことは無く、親類の表敬訪問を兼ねて行くことにしました。

ヤンゴンとラングーンと仰光

ちょっと脱線。私達がはるか昔の高校時代、Yangonは学校でRangoonと習いました。これはどうやら英国人の耳には、ビルマ語の語頭のY音がR音に聞こえたと思われます。この現象は、ミャンマー最大の大河イラワジ川(Irrawaddy)でも発生しています。現地ではこの川を「イヤワッディー」と発音しています。やはりRとYの変換が起こっています。ヤンゴンと言う発音も、時にはヤングンと聞こえる時があり、これがラングーンとなったと思われます。

さらに脱線しますが、ヤンゴンを漢字で書くと「仰光」。美しい中国語訳です。

ヤンゴン国際空港

ミンガラドン空港

ミンガラドン空港とも言う、太平洋戦争中は大日本帝国陸軍航空隊も使用した由緒ある飛行場。

ヤンゴン市の北部分にありますが、手狭になり、新ターミナルビルを建設中(2016年現在)ですが、新国際空港を郊外に建設するプロジェクトも進行しています。恐らく現空港ではジャンボジェット機級の大型旅客機の受け入れができないためと思われます。

2012年、民主化が始まって1年後に初めてヤンゴンを訪れた時は、軍事政権の残影が色濃く残っていると思いきや、イミグレーションや税関職員はイギリス風の黒い制服を着た若い娘が多く、しかもみんな可愛いのに驚かされました。軍事政権の跡形も見えないのは大歓迎だが、こんな重要な施設を娘ばかりに任せて大丈夫か、と心配になるほどでした。

税関申告書を誰もくれなかったので、税関のカウンターで要求すると、これまた若いムスメ税関士がハイと用紙をくれました。彼女のカウンターを無遠慮に借りて用紙に記入し、ハイと渡すと、内容を一瞥もしないで記入済みの用紙の束に重ねてしまいました。多分、何も言わなかったらそのまま通過できたはず。

2年後の再訪ではミンガラドン空港はひどい雨に煙っていました。ターミナルビル拡張工事らしき建築中のビルも見えます。軍が戻って来ているかも、と心配していましたが、様子は前回と変わらないので、まずはほっとしました。

入国手続きに並んでいると突然の停電。早速のミャンマー式歓迎です。前に居る白人の若い男性と顔を見合わせ、互いに苦笑い。航空機の離発着や、航空管制をロウソクと懐中電灯でやっているのではあるまいな、と気になりながらそのままじっとしていると5、6分で回復して、世間並みの空港風景に戻りました。

パスポートチェックが終了し、チェンマイ空港で臭うから包み直しの宣告を受けたお土産のサワーソーセージの包みを含めて、無事全荷物を回収し、税関へ。今回は期待を裏切られて、制服も着用していない「あんた誰?」と言う感じのただのおっさんが申告用紙を回収して、終わり。

外は雨で車と人がごった返していました。車寄せは大混乱の真っ最中。巨大なバスが、無理に車列に割り込もうとしてクラクションがやかましい。これで、ジャンボジェットが2機ほど到着したら、ターミナルビルの中も外も混乱で崩壊するのは確実です。

この空港で驚き拍子抜けの気分になったこととして、空港はどこを見渡してみても銃を持った警備兵の姿や警官の姿もありません。結局、あの悪名高いビルマ国軍の姿は、1回目の訪問でも2回目でも、ついに目にすることはありませんでした(一兵たりとも! )。 

ヤンゴン市内

これは市内に入っても同じことで、この国がつい2011年まで50年の長きに渡って軍政下に喘いでいたということが信じられません。

行くまでは、人心は乱れ笑いを失った悲しそうで疑い深い目を想像し、勝手に緊張していたのですが、素朴な民衆の生活は何十年も民主化が続いてきたかのように明るく、その割にはタイ人に比べて慎み深くタイ人同様親切でした。これには一種のカルチャーショックを受けました。建物群もどこか英国コロニアル調の落ち着いた感じで、お寺も金色をグリーンで抑えた落ち着いた感じがしました。

最初の2012年のヤンゴン訪問時に見てびっくりは、交通量は多いのですが道行く車は恐ろしくオンボロで、昔のタイを想起させてくれました。市内の交差点の信号は少なく、滞在中に遭遇した信号は2か所でした。道路区画は英国式に整然として、道路名も地区名も英語標識で非常に分かりやすいものでしたが、道路そのものは相当くたびれていました。

タイや日本と違い車は右側通行で(ミャンマーは色々な社会制度がすべて英国式なのに交通システムはアメリカ式! )、歩行者や自転車が好き勝手に横断して、見ているとハラハラしました。自転車が多いのは、市内はバイクの乗り入れが禁止されていたからで、ここがタイと大きな違い。あの出鱈目だと思っていたタイの道路事情が、一度ヤンゴンを見てからチェンマイに戻ると整然として目を見張る想いでした。

鎖国状態であったため観光用のホテルは荒れているだろうと思いきや、やや古びてはいますがホテルも英国調のどっしりした落ち着いたホテルで、従業員のサービスもよく気持ちのいいものでした。現在ヤンゴンのホテル料金は高騰しているようです。特に日本からネットで予約を入れたりすると、満室を宣言されたり、タイよりも高い料金になるはずです。小さな落ち着いたホテルは結構あります。できれば現地で探すことをお勧めします。

最上階から見るヤンゴンの街は、高層ビルもなく緑につつまれ、巨大な金色に輝くパゴダが点在していました。

カチン族ウトゥジャ氏について

ここでちょっと話がそれます。

最初の訪問時に、姉の旦那の知り合いで、カチン州出身の40歳後半のウトウジャと言う日本語ペラペラの人物を私の為に紹介してもらいました。ヤンゴンに着いて2日目で突然日本語が通じる人物と会うのは驚きでした。

ビルマ語の男性名の先頭の「ウ」はミスターの意味がありますのでウトゥジャをウトゥジャ氏と表現するのはバカ丁寧で、以降ウトゥジャと呼び捨て風に呼びます。

何故ウトゥジャは日本語が話せるかと言えば、彼は日本における不法就労18年の超ベテランだったからです。彼からミャンマーについて多くの話を聞かせてもらいました。彼の出身はミャンマー最北のカチン州で、その向こうは中国。ただ両国を隔てるのは3,000メートル級の峻険な山岳地帯ですが、中国の援助でできた雲南省との交通路があり、中国との交易は盛んな様です。。

ウトゥジャ青年は昔、日本へ不法入国して横浜や東京の居酒屋の厨房で働きはじめました。以来苦節18年、背後から忍び寄るニッポン入管や警官の影を避けながらの生活でした。

ミャンマー人の習慣で、仲間を呼ぶときに「チッチ」と舌打ちをします。ニッポン入管やケイサツはこのことを熟知していて、こいつは、という人物に目を付けると少し離れた背後から「チッチ」と舌打ちをするとのこと。ミャンマー人ならば反射的に振り向いてしまいます。この手にかかって、あわれ身元がばれて強制送還されて行った仲間が何人もいた様です。ウトゥジャは背後で舌打ちが聞こえても、必死で歯を食いしばり振り向くのをこらえて幾多の危機を乗り越えた様ですが、それでもアパートのドアがいつノックされ「警察です」と言う声が聞こえはしないかと言う不安の日々を送ったとの話でした。

彼は多くのミャンマー人がそうであるように、居酒屋の厨房で勤めあげました。最後には、厨房を取りしきる板前のリーダー(板長=いたちょうさん)にまでなって、日本人の厨房員をこき使い、オーナーの片腕として活躍。小生がビデオの仕事をしていた東京中野区にもいたので、もしかして中野商店街ですれ違っていたかも知れません。

お金もある程度貯まり、潮時が来てミャンマーに戻るためにニッポン入管に自首したとのこと。入管の係員が驚いて「あんた、これは不法就労で、強制送還になるのを知っているのか?」と聞いてきたので「知っています。だからここへ来たのです。」と答えると、入管は確信犯を18年も放置していたのは自分たちの立場を悪くするらしく、「知らなかったことにしろ」と言う。ウトゥジャは「だけど知っていたよ」とぐずると「知らなかったことにしてくれ」と頼んできた、と日本最後をコントで締めくくって帰国してきたとのこと。

奥さんもミャンマー人で、日本で働いていた時知り合った様で、彼女もまた日本語がペラペラ。彼が日本で貯めたお金で車を購入し(超オンボロのマークⅡで、いくら金持ちでも当時買えるのは超オンボロの車しか手にはいらない)、個人タクシーの運転手をやってヤンゴン市内を走り回っています。

カチン族は日本人の目ではビルマ族と区別がつきません。最大の違いは、タイ人とおなじ仏教徒のビルマ人に対して、カチンの人々はキリスト教徒です。

土森 注: チェンマイから北部、北西部のミャンマーやラオスと接する国境地帯は、延々と海抜2000メートル級の山々が連なります。

インド亜大陸がユーラシア大陸に3000万年前にぶつかって、今でも北東部に向かって押し続けています。そのためこのあたりは褶曲山脈が続く山岳地帯で、時折大きな地震が四川省から南にかけて発生します。2016年もパガン遺跡群が破壊される大地震が発生したことは皆さんご記憶の事と思います。

また このミャンマー北部からタイ北部にかけての山岳地帯には雲南省、チベット、ネパールの方から少数民族が絶え間なく民族移動を続けており、山の中に村々を作って生活をしています。彼らにとって各国の国境は全く関係の無い話であるわけです。

ミャンマーからタイにかけてのこの山岳地帯は 約300-400万人の、モーン族、タイヤイ族、アカ族、ラフ族、リス族、カレン族、カチン族など大きく分けても20以上の部族がほぼ自給自足の生活をしています。(部族を細かく分類すると100以上となります)

下界のタイやミャンマーの人々とは経済的にも交流が少なくまたこれら山岳少数民族の村々にはタイやミャンマーの国籍を持たない人々も半数近くおり、政府の行政は届いていません。電気も通じていない所も多くあります。

カチン族についてもう少し説明させて頂くと、この部族はミャンマー最北端の中国と国境を接する広大な山岳地帯に居住する部族です。雲南省、チベット、アッサムの方から移住してきています。チベット系の民族です。彼らの伝統的社会は山間丘陵部を中心に焼畑農業で生計を立てています。

この地帯は約4500人と言われるカチン独立軍のゲリラ部隊と政府との戦いが長く続いており、それによって住民の多くが国内難民となっており、国際NGOが運営する難民キャンプに暮らしています。国連高等難民弁務官事務所もこの地方に設けられています。

カチン州は上の地図からお分かりのごとく、北と東を中国のチベット自治州、雲南省、そして西側はインドと国境を接します。これらの国との国境は高い山脈によって隔てられていますが、中国との往来は活発で、また中国の援助によりできた道路を通じ3時間くらいで中国へ行くことができます。

貪欲な中国商人はヒスイや高級建材のチ―ク材などの天然資源を堂々と密輸で中国へ運んでいますがこの交易で恩恵をこうむるのはカチン州の一般の人ではなく中国へ利権を売り飛ばすカチンの有力者たちです。ミャンマーから二束三文で買った資源を運搬した後は中国内で高値で売り飛ばされて膨大な利益を稼いでいるようです。

中国からの後ろ盾があると言われているカチンの反政府活動により、ミャンマーの軍もこの地域を統制できず、最近始まっているミャンマー新政府の北部少数民族との内戦終結への対話にも、このカチン独立軍は応じていません。タイでもマレーシアと故郷を接する、イスラム系の民族が中心の南部3県で、何十年にもわたり融和策が実行を上げていない為に、治安が果たせていないのと同じように、今後のミャンマーにとって、カチン州への対策は最も大きな課題と言えるでしょう。

カチン独立武装闘争の混乱から逃れ国連の難民キャンプに暮らすカチン族の女性。写真出展Rangoon revealed

ご存知の方も多いと思いますが、日本に難民申請して居住するミャンマー人の中には、カチン族も多く含まれています。驚くべきことに、これら、ミャンマーからタイにかけての山岳地帯の様々な部族の村々には、隅々まで西欧のキリスト教団体が入り込んで、布教活動と共に村民の生活向上のために水道タンクを作ったりの支援を行い、これによってこれら少数民族はほぼすべてキリスト教に帰依しています。

土森もタイ、ミャンマーの国境地帯の山の中の村を訪れて村の家に泊めてもらい、教会の日曜ミサに参列したこともあります。 村の村長さんが日曜ミサで毎回住民に説法を行います(残念ながら部族言語の為全く何を言っているかはわかりません)。

私達が教育支援をしている山岳少数民族の子供の卒業後、村での結婚式に参列したこともあります。村のおばさん達がとてもハーモニーの美しい讃美歌を歌って新郎新婦を祝福します。但しその後の宴会は冬瓜や地元の野菜と庭に買っている鶏を潰した地元料理となり、酒はありません。

ある日、ウトゥジャとお寺に行った時に、小生がまず寺の建物の中に入りました。他の人々がする様に、サンダルを脱いで裸足で入りました。廊下の椅子に座ってウトゥジャが来るのを待っていると、彼はサンダルを履いたままでやってきました。「ウトゥジャ、サンダルは脱がなくてもいいのか?」と聞くと、キリスト教徒の彼はびっくりして「あ、そうだ、忘れていたよ!」と血相を変えて脱ぎました。裸足になって小生の隣の椅子に座り「あーびっくりした」と冷や汗を拭きながら次のような逸話を語ってくれました。

その昔、ビルマの王様にイギリス軍の将軍が挨拶に訪れた時のこと。ビルマの王はイギリス人に拝謁するときは靴を脱げ、と命じました。イギリス人は拒否しました。脱げ、脱がないで双方が一歩も引かず、とうとう戦争にまで発展。結果はビルマが破れて、イギリスの植民地になってしまったと言う話でした。『またおれのせいでミャンマー政府とカチン州で全面戦争が起こるかと思ったよ』と我がウトウジャは苦笑い。

ヤンゴンの街の印象

街ゆく人々は小生の目から見ると、ビルマ人、華人、印度人ぐらいの区別しかつきませんが、連邦内の各州からやってきたいろいろな人々がいるはずです。英語はタイよりもはるかに通じます。小学校から英語教育が行われている様です。商店の看板も英語表記が多く、何屋さんなのか一目で分かり便利です(タイではタイ語看板なので何屋かもわかりません)。タイ語はさすがヤンゴンでは通じない様で、ビルマ語、英語、中国語と言ったところでしょうか。(シャン州に入れば、住民はタイヤイ族が中心なのでタイ語が通じると思います)。

20余年前にシャン州のチェントゥンにメーサーイから入った時は、中国入境並みに「兌換券」に交換されましたが、2012始めてヤンゴンに入った時はUS$でOKでした。しかし、2012年はアメリカの経済制裁下にあり、外人用の土産やホテルの価格はすべてユーロで表現されていました。そこからUS$に換算されます。US$を現地通貨のチャットに交換する際、両替屋に折り目の入ったUS$札を提示すると、受け取りを拒否されます。もしくは極端に悪い交換レートになります。折り目のない新札が交換条件です。ミャンマーのチャット貨幣の価格は、現在おおざっぱに言って、1円が12チャットですが まあ現地価格を10分の1すれば円貨だと思えば良いでしょう。

2014年 第二回目のヤンゴン訪問 – 2年でヤンゴンは大変化

2012年のヤンゴンの印象は、軍事政権の鎖国状態が長く続いたにもかかわらず、人々の表情は穏やかで、笑顔が美しく、整った顔立ちの女性が多く、驚きました。

ただかつての首都[現在はネピドーが新しい首都となっている]であるにもかかわらず交通はひどく、車はボロボロで走っている間に分解するのではないか、と言うものばかりでした。姉一家が日常使っていた古いトヨタマークⅡもパワーウインドウが開かなかったり、ウトゥジャのタクシーはいつドアが外れるかひやひやでガムテープで補強している有様でした。風を切って走ると塗装が剥がれ落ちるのではと言う感じでした。

公共のバスは、妙な赤色を塗っているなと思ったら全面のサビでした。タクシーも中国製のチョロキューみたいな粗末な車が圧倒的に多く、トラックも中国製の軍用トラックの御下がりといった感じ。信号も2つしかなかったので、どこにあるのかすぐ覚えられました。

土森 注: おそらくミャンマーの大通りの交差点はイギリス式に信号の無いラウンドアバウトなるルールの交差点が多いと思われる。

さて2014年に再訪して度肝を抜かれたのは、そんなボロボロの車は夢のようにどこかに消えてしまっていたことです。走っているのは圧倒的にトヨタとホンダ車で、それも状態の良い中古車ばかりです(タイからの直接輸入は禁止。そのために日本から程度の良い中古車が大量に入ってきていました。)バスは錆の出ていない車体にカラフルな宣伝広告をかき込んでいます。

しかも車の数も増え、真新しいLED信号があちこちについています。これがあの2年前にみたヤンゴン?と我が目を疑いました。

タクシーも増えました。2年前ならば中国製のチョロキューだったのが、ホンダのフィットがタクシーで走りまわっています。姉一家の車も、立派なホンダ・アコードやトヨタの4駈などに変わっていました。ウトゥジャも状態の良いマークⅡに乗り換えていました。

ショッピングモールも出てきました。スーパーの上を行くハイパーマーケットCapitalと言うのもあります。(ネットで調べるとタイ資本ではなく、どうやら地元資本の様です)

まだ多くはありませんが、2年前に比べてネオンサインも増えてきました。一軒だけでしたが、abcと言う看板のついたコンビニの「実物」も発見しました。Capitalのチラシを見るとその傘下のG&G[Grab &Goの略]と言うコンビニがヤンゴンには30件もリストアップされています。ヤンゴン市内もその内タイや日本と同様にコンビニだらけになる日がくるでしょう。

ケンタッキーフライドチキンが出店し、待ち時間1時間以上と、家内の姉の親類が教えてくれました。大きなビルの建築現場もあちこちに見られます。

ウトゥジャに言わせると、ちょっと前までは「電話、車、家、土地」が欲しくても手が出せなかった宝物だったが、今は電話と車は手に入り「土地、家」に変わっている、とか。

ヤンゴン市は、北にミンガラドン国際空港や工業団地、真ん中は大小の湖のあり多少の高低差がある土地にホテルなどが点在し、南には繁華街のダウンタウンがあります。

市の東西は川が蛇行し、両側を川に挟まれたかっこうになっています。いずれの川も何百キロ北方でイラワジ川から分岐した川が、さらに分岐や合流を重ねた支流の一つです。東側の川には結構橋が架かっていますが、それは向こう側の郊外にも居住区域があるようす。一方西側の川の方は橋が一つか、2つしかありません。その向こうは水田か無人地帯です。橋が少ないのはこのためなのか、川が大きいので橋が架けられなかった結果なのか、因果関係が分かりません。

高層ビルがないので、以前ホテルの最上階から眺めた景観はチェンマイと似ていました。

市内の主要道路は広くてごく普通の道路ですが、脇道などは我々が子供の頃に見た日本の道路みたいで、未舗装もあり、かなりでこぼこです。区画はさすが大英帝国が経営しただけのことはあって、定規で引いたような整然とした区割りになっています。特にダウンタウンは見事に区画されています。(未舗装の脇道は、この区画を無視してあとから勝手に作った道かもしれません)シンガポールのリークワンユーが都市計画作りでこのヤンゴンをモデルにした、と言う逸話も理解できる気がします。

小生が見た範囲では、道路は薄汚れた中央線が引いてありますが、路肩を示す線はありません。歩道橋は稀に見かけられます。街路標識は見やすく、まず英文表記があり、次にビルマ語表記がついているか、ないかです。前からそうであったような感じで、民主化にともなって慌てて付けた様子はありません。店の看板や店名、省庁の表示も英語が多く、タイのようにその建物が一体何か分からない、ということはありません。(ただし、これはヤンゴン市内だけのようですが)

問題は、暗くなった夜に襲ってきます。相変わらず街路灯が非常に少ないのです。前回よりかはわずかに改善されているようですが、暗い街の印象は変わっていません。本当にやりきれない暗い街でした。今日現在ではおそらく街路灯も増えているのではと思います。

たまたま電灯をつけている店の前には夕涼みをする庶民が群れていました。我々が知っている日本の街(すでにタイでも同じですが)では街路灯がつき、沿道の店や家の明かりが道路を照らしています。ヤンゴンでは、沿道は闇に沈んでいます。

何もない闇かと思えば、よく見ると店の前を人々がかなり歩いています。その闇の中から歩行者が、道路を横断しようと渡ってきます。ラッシュの時は、当然一気に渡れずに中心線の所で立ち止まります。それが次々と現れます。まるで道路の中心線は歩行者のためにあるかのようです。対向車は、暗い道を広範囲に照らしたいのかハイビーム照射が普通で、まぶしくてたまりません。その光芒の中に、中心線にたたずむ人影が突然浮かび上がります。もう目の前です。男も、女も、赤ん坊を抱いた母親も、よたよたの年寄りも、2人乗りの自転車も、犬も鶏も・・・強引に渡り切ってしまうので、つんのめって急停車する車もあちこち見られます。そこかしこでクラクションが悲鳴を上げています。これは、しかし東南アジアからインド亜大陸にかけての一般風景かもしれませんが。

ヤンゴン市内はオートバイ乗り入れ禁止なので、イナゴの大群のように走り回るホンダカブ号を見慣れたタイやベトナム在住者にとっては、逆に奇異に見える時があります。その報復手段として、ここでは道路にはオンボロ自転車がよたよた走り、歩行者が闊歩して、沿道は中古路線バスがひしめき合うように走りまわっています。

ヤンゴンショッピングセンター

Capital Hyper Market

ハイパーマーケットのCapitalという大型小売店のカタログは、すべて英語で書かれていますが、これを持って帰ってきて、眺めてわかったことは、ハイパーマーケットなる、多分タイのビッグCみたいな大型小売店は、ヤンゴンのほかにネピドーにもあるようです。

ハイパーマーケットはお客が自家用車で来るようなところですから、ヤンゴンの上流社会が客層と考えられます。先ほどの円貨換算で見ますとペプシ缶330mlで30円~40円。食器用洗剤750mlで100円。鶏肉ソーセージ340g120円。庶民感覚の値段ではないと思われます。

私の印象では外国人の移動はまったく問題なく、外人様大歓迎と言う感じで、海外からの観光客誘致に力を入れています。ただし北部のカチン州などの中国国境寄りの山岳地帯は反政府ゲリラ活動が続いており、治安上物騒で、外国人が立ち入りを禁じられているところもあります。

街の発展は私の目から見ると急速にタイ化の方向はありますが、分野によってばらつきが出ています。たとえば車の場合は、輸入規制や税金と言ったルールやシステムを操作することで、あっという間にタイのような車社会に変貌します。電話も以前は車と並ぶぜいたく品であったのに、今はタイ並みの安さで携帯電話が普及しています(表現の自由化のおかげ)。

土森 注: 2014年に赤尾さんがヤンゴン訪問時に歩きまわって見たショッピング街の事情。調べて見ると、あとで述べるイギリス植民地時代からの建物の中にある旧来のアウンサンマーケットに続いて、上記のCapitalができた後、2016年現在ヤンゴンの街の中や郊外には、雨後のタケノコのごとく大型ショッピングセンターやモールが続々と出現しているようです。

急激な経済発展段階の初期に始まるこのような大規模ショッピングモールの出現は、かつてのバンコク、あるいはマニラ、現在ではヴェトナムのホーチミンシテイなどなどで起こった現象。同じことがミャンマーでも起こっています。国内消費需要を先取りしていく急激な町の再開発、変貌が進んでいるようです。

これらのショッピングモールの例を挙げますとUzana Plaza,   Junction Square (最上階のレストランホールには日本のラーメン屋のリトル東京がある)Ruby Mart (スーパーマーケットショッピングモール)Parkson Dept. Store, Gamone Pwint Shopping Mall, Yokin Shopping mall, United Living Mall (ここにはDaisoの店がある)などなどです。

Junction Square
United Living Mall

しかし一方で水道、電気、道路と言ったインフラはそう簡単にタイ化することはできず、たった五日いただけで停電2回、断水1回(一度起こると半日以上を覚悟)を経験し、20年前のメーサーイやタチレクを想起しました。チェンマイにもどってきたら、タイから東京に戻って来たような落差を感じました。

家内の姉の家は豪邸で、全室エアコン付きですが、停電が起こると表で涼む以外に手はありません。断水すると水洗トイレは全滅で、これは辛い所があります。シャワーが大好きなミャンマー人やタイ族にとってはこれまた死ぬほどつらい状態が続きます。 (小生は、少々シャワーを浴びなくても死にません)

この豪邸は本道から少し引っ込んだ所にありますが、本道に出る角にドブがあり、それをまたぐようにみすぼらしい家がありました。ここしか家を建てる土地がなかったようで、壁のかわりに蚊帳を張っていました。通りかかると、赤ん坊がいるのか、子守歌が聞こえてきました。このような家は、我々が停電や断水を喰らって、あわを喰っている時も、何の影響も受けず(電気が来ていない、家はトイレの上にあるようなもの)平和に生活しておりました。

どこかノスタルジックで、神秘性のある興味ある国です。市内はもとより田舎でも、突然木立の向こうに巨大な金色のパゴダが現れる時、あらためてここはミャンマーだ、と感動いたします。

恐らく2012年と2014年の間に起こった劇的な変化は、先にもちょっと述べましたがヤンゴンの街を走る車です。少し細かく見て行きましょう。

ヤンゴンの交通事情 2014 ① 乗用車

まずは2012年の道路上は、かつて20年余前にタイで見た、走る骨董品や走る博物館展示品が見られたものでした。その多くは日本からの中古車なので、日本語がそのまま残されているトラックや配送車が見受けられますが、日本語は一種のステータスシンボルで、日本から直送されてきた証拠としてありがたがられています。

何しろ古いので、風化が進行し大切なステータスシンボルもかすれたり、錆に隠されたりします。その消えかかった日本語を、わざわざ筆でなぞって書き直しているいじらしい車もあります。が、元の文字が良く分からなくなった場合は推測でなぞるので、チンケな会社名や商店名としてはあり得ない名前が出現。更に一歩進んだ車は、勝手に日本語を創作して書き込んでいます。もちろん笑っているのは日本人だけでした。ただし、同じ漢字でも「上海ナントカ公司」と言う中国語を書いている車は無いので、その辺は分かっているのか、とも思えます。

それから2年経ち、再び訪れた日本人が目にしたのは、道路を走るのは日本車ばかり・・・は、2年前と同じですが、かってのオンボロカーはまるで軍の命令があった様に影も形も失せています。さすがに納車直後のピカピカの新車はありませんが、すべてが程度の良い中古車になっているではありませんか!もちろん日本語表記はまだ健在の様で「松戸ナントカ幼稚園」などと言うのも走っていますが、車体と表示状態は日本国内並みにちゃんとしています。

2年前は崩れて原型もはっきりしなかったのに、車の程度が飛躍的に向上したおかげで車のメーカーが良く分かりました。すべての日本のメーカーを見ることができます。一番多いのはトヨタのカローラ、2番目はホンダのフィット。ただし、隣国の自動車生産国タイからの輸入は何故か禁止されており(守るべき自国の自動車産業もないのに不思議)、すべてははるばると日本から運ばれてきた車のようです。

アウンサンマーケット前のボージョーアウンサン通り。マーケットは写真左手から、突然ごちゃごちゃとにぎやかに始まります。
写っている車両群は、すでにすっかりと入れ替わったがっかりするくらい綺麗な日本製中古車たち。
画面左手前方に見えているビルは2014年当時ヤンゴンで一番の高層ビル、Sakura Tower.

急激なモーターライゼーションを象徴するエピソードを一つ。あるお金持ちのおばさんが、ミャンマーでは珍しい日本のハイブリッド車を購入し、どこかにぶつけ、搭載コンピュータが壊れて、電気制御装置がすべて機能しなくなり、窓はおろか、ドアも開かなくなって大騒ぎしました。修理しようとしたらハイブリッド車を修理できるエンジニアがまだミャンマーにはいないことがわかり、タイから出張で来てもらうことに。修理は以外に早く終わり、どうやって治したんだ、と見ていた人に聞いたら「エンジンの電気コードを2つちゃんと差し込んだだけだった」とのこと。

ヤンゴンの交通事情 2014 ② タクシー

走る車はマイカーが少なく、タクシーの方が多いと思われます。

2012年ごろのヤンゴンのタクシーで良く見かけたのは中国製のミニナントカと言う車で、日本で子供のおもちゃだったチョロキューを大きくした感じの車。多分チョロキューをそのまま拡大したと思われるのですが、もしそうならオリジナルが「おちょこ」くらいの大きさだったので、拡大作業も大変だっただろうと同情します。そのせいか造りが雑で座席も公園のベンチ並みのものでした。気をつけないと溶接部分の整形が荒く、脚や腕がぶつかると怪我をしそうでした。

2014年には、超オンボロカーが淘汰され、日本から「新しい」中古車がどっと入ってくると、そのあおりを喰らってチャイナ・チョロキューもどこかに吹っ飛んでしまいました。

そのほかに中国製よりもさらに寸つまりのインド製のタクシーもあったようですが、これは別の理由で絶滅種となったようです。このインディアン・カーは寸詰まりの癖に車高が高く、小さいタイヤのおかげで、カーブで横転事故をよく起こしたようです。さすが命知らずのヤンゴンの乗客も、それよりもっと命知らずの運転手も、この車は敬遠したと聞きます。もうほとんど命はいらないマニアが運転していたのか、かろうじて2台見ましたが、内1台は走ってはおらず駐車していました。

「新」中古車が「超」中古車を駆逐したのは、車の輸入関税が大幅に引き下げられたからで、新輸入関税は普通車が30%、タクシーなどの商用車が15%となっています。民主化以前は100%以上が課税されていたはずですし、輸入許可を得るのも大変な作業だったでしょう。

この「タクシーとして輸入すれば輸入関税が普通車の半分で済む」、と言うルールを悪用して、タクシーで申告した普通車も走っているという話です。赤いタクシーナンバーを付けたトヨタのハリヤーもあるとか。このハリヤ―「タクシー」を見かけて手をあげても、停まってくれないでしょうし、嫌がらせの目には目をで、停めても法外なタクシー代を通告されるだけでしょう。

メーター制は試験的に実施しましたが、メーターは自費で取り付けねばならぬのと、わざと遠回りをする雲助や、逆に時間のかかる渋滞道路を嫌って乗車拒否するタクシーが出て、利用者の不評を買い、現在は元の「交渉制」にUターン。

日本で多人数が乗る場合、停まった車にさっさと乗り込み、余った人は次のタクシーに乗り込みますが、ここではそんな和式は通用せず、行先と料金、客の人相などで運ちゃんに乗車拒否権があり、長々とやり取りした挙句逃げられる場合もあります。その様子を見つけた別のタクシーが後ろに停まり、交渉の列を作ります。先頭車がまとまると、その運ちゃんが後続車と行先やルート、料金の確認のため打ち合わせをしますが、別に列を作って走ることはなく、後から出発したはずのグループが目的地で待っていたりします。

ヤンゴンの交通事情 2014 ③ 路線バス

バスも以前のように赤錆で「塗装」したようなショッキングなものは姿を消し、カラフルなコマーシャルを描いたものにかわっていました。

道路は日本車で埋め尽くされていますが、路線バスは韓国製や中国製も多く見ることが出来ます。その最大の理由は、日本のバスは乗降口が左側に付いているため。ミャンマーでは乗客は車道側で乗り降りせざるを得なくなり危険なために、最初から右側に乗降口がついている韓国や中国の中古バスが導入されたからです。

しかし、日本の中古バスへの郷愁と頑丈神話は捨てがたく、下の写真にありますように、従来の乗降口を鉄棒で塞いで使用できなくして、反対側に新たな乗降口を切り取って使っています。(田舎に行けば、何もせずにそのままの日本バスを使っています)

市内の路線バスの車体は宣伝媒体に利用され、塗装もそれ用に美しくなっていますが、郊外を走るバスはほとんどがオリジナルのままで、専用デポが無いのか、始発時間前の明けやらぬ沿道にずらりと並んで、1日の仕事の始まりを待っています。見ると「ニセコ観光」と書いたバスの隣に「琉球ナントカ観光」のバスもとまっており、夜明け前のヤンゴンでは日本全国のバスの展示を楽しむことが出来ます。 

日本製の路線バス。中央の乗降口は鉄のバーで降りられない様にブロックされています。
写真では反対側が見れないが、新しい乗降口が切り取られ、歩道側に開口しています。
前の乗降口までふさぐと運転手の乗り降りに不便なので、専任の警備員がブロックしているのが見えます。

岩国観光の綺麗なバス。ヤンゴンでも観光バスとして使用されている

2014年の時点では、ヤンゴン国際空港の空港内バスも日本製が確認されています。

空港自体小型で、ジャンボジェットの運行もできず、背の低いプロペラ機では蛇腹装置使えないので、ターミナルと飛行機を結ぶのは移動用バスでした。

もちろん日本製のバスでしたが、各座席の窓の仕切りには「下車したい方は押してください」と書いた日本語表示のブザースイッチがズラリとついていました。

飛行機に着くまでに押すとどうなるのか興味がありましたが、航空法違反に問われる恐れがあり(空港内敷地はすべて航空法が支配しています)おとなしくしておりました。さすが国際空港ではこの移動用バスもデラックスで、中古とはいえノンステップバスでした。

ヤンゴンの交通事情 2014 ③ 輪タク

モーターバイクの市内走行は禁じられているため、タイやベトナムやカンボジアで見かけられる、バイクの群れがありません。庶民の足は自転車で、「高額」なタクシーの代わりは輪タクが務めます。

ヤンゴンの自転車タクシーはサイドカー式で、自転車の横に客の座る部分がカヌーのように付いています。この乗客部は2人の客が背中合わせに座るように出来ていて、さらに運転手の後の、荷台部分にももう一人乗れます。そうすると運転手を入れてスペース的には4人乗ることが出来るわけですが、自動車の行きかう大通りを行くときは、乗客の一番元気なのがひょいと降りてそばを歩き、ノロノロ進む輪タクが車にはねられても自分だけは死なない様にします。

大人3人の客は運ちゃんもしんどかろう、と同情しますが、輪タクに乗る時はいつも、運ちゃんが気の毒だから乗らないほうが親切なのか、運ちゃんの儲けになるので、乗ってやるべきなのか激しく葛藤します。

ここヤンゴンでサイドカーの後ろ向きの位置に座ると、これはどんなテーマパークのアトラクションよりも迫力があります。夜になると後からくる車のライトが、ぐぐぐっと膝頭近くまで寄ってきます。あれほど同情していた輪タクの運ちゃんに「もっと速くはしれ!」と怒鳴りたくなります。

ヤンゴンの交通事情 2014 ④ 鉄道

ヤンゴン市内を車で移動すると、思ったよりも鉄道線路に遭遇します。線路状態はお世辞にも良いとは言えませんが、バンコクのコミューターは別として、タイの鉄道とあまり変わりません。中央駅は、市の南部ダウンタウン地区に有り、市内をぐるりと回る環状線もあります。

電化はされていないので、ディーゼル気動車や機関車となりますが、かなりの日本製の中古車両が使用されている様です。したがって、列車を見て「古臭い」とか「安っぽい」などと不用意に思うと、それが日本の車両の場合があります。

写真は市内のとある踏切です。列車が通過しようとしています。踏切係が戦車も停められるような大きな遮断機を下ろしていますが、肝心の列車の通過を待っている自転車のおばちゃんは、遮断機の内側に入っていますので、遮断機の意味がありません。心が広いヤンゴンの踏切係のオジサンは、別に怒るわけでもなく、注意するわけでもなく、黙々と遮断機の上げ下げの任務を遂行しています。

ミャンマーの食事

食事は、不幸にもタイ飯を知っている人間には、ミャンマー料理と言われるものはまずく、すべて缶詰食品ではないかと思うぐらいの味です(これはメーサーイの隣町のタチレクがそうでしたが、あれは田舎だったから、と思っていたらヤンゴンもそうでした)。どうやらアメリカと同じで「これがビルマ料理だ!」と誇れるものがなく、昨日はタイ料理、今晩は中華、たまに韓国料理と言った食生活でした。

朝飯は屋台のインド系の食べもの(姉の旦那が買ってきてくれたので安全だと勝手に思い込み)、ランチは自分で好きなビルマ料理(何が好きかも分からないのですが)を掻き集めてくるバイキング食堂が一般的でした。

ミャンマー料理:脂っこいものが多い。またインドの影響でカレー味の物も多いようである。写真で見る限り、タイの伝統料理、東北部料理、北部料理と非常に似ている。

土森 注:タイ料理に慣れ親しんでいる赤尾さんにとっては訪問時に食べたミャンマー料理はおいしく感じなかったかもしれません。しかし、伝統ある東南アジアのかつての盟主であった歴史あるミャンマー、タイやインドに挟まれて中国系の少数民族が多い所の料理は多彩であるはず。

調べてみました。Wikipediaのコメント:「特徴はスパイスを比較的抑えているが油を多用するらしい。」これは赤尾さんの食感に一致します。

食材にはいろいろな豆類が多く用いられるようです。(これはイギリス植民地時代の影響か?)味付けはタイのナムプラーと同じ魚しょうと塩辛がメインとのこと。

おかず類は『ヒン』と言うらしいが各種の肉類の料理、あるいはミャンマー風の油を多く使用したカレー料理のようです。写真でも見られる、あえ物やサラダ、青菜やモヤシなどの漬物類、また各種の麺類があります。さらにご飯は『ダンバウ』と言う鶏肉の炊き込みご飯や「タミンチョー」と言う炒飯も一般的とのこと。食べたことがないので解りませんが、解説からの感じでは結構行けるのではないでしょうか?

また 東京の新宿高田の馬場には現在ミャンマー人が約2000人程住んでおり リトルヤンゴンと呼ばれる地域があるそうです。ミャンマーの民主化に合わせてこの人数は増えてきているようです。この地区には屋台の麺類から民族料理まで多彩なミャンマー料理があるとのこと。以下見てきかのごとく記述いたします。

そのひとつ、JR高田の馬場駅前の「ミンガラバー」、もう20年間営業中。ヤンゴンの家庭料理が並んでいます。代表料理は モヒンガー。米緬を ナマズをじっくりと煮込んだすり身ベースにタマネギやニンニクを煮込んだス―プ。うまそうですなー。またダンバウと言う炊き込みご飯。カシュウナッツやレーズンをじっくりとご飯に煮込み、鶏のもも肉を載せたもの。

ガード際の雑居ビル内の店「ノングインレイ」はシャン族 [泰族系] 料理を出しています。オーナーは35年前に日本に亡命したステイップさん。日本に帰化して日本名はなんと「山田泰正」。皆さんこの名前の意味お分かりですね。タイのアユッタヤー王朝につかえて活躍した山田長政から取っている。シャン族=泰族をかけています。

またカチン族の料理店「マリカ」と言う店もあるようです。

読者の皆さん。本稿を読んでご興味あれば東京に行ったついでに一度ここを訪れてみるといかがでしょうか?

アコイの姉の長男の結婚式の為に家族でヤンゴン訪問

第2回目のヤンゴン行きは、姉の長男の結婚式のために訪緬となったのですが、ミャンマーの奥地や、タチレクや、タイのメーサーイに居る姉の友人たちの泰族を中心に、20名ほどの親族縁者達がヤンゴンに集まりました (下の写真)

結婚式でヤンゴンのお寺に集まった泰族の女性の面々。
ミャンマー国内のシャン州トゥンチーやタチレク、カヤ州のロイコーそしてタイのメーサーイやチェンマイからも来ています。後ろのグループの中央オレンジ色の服の女性は、アメリカのカリフォルニア在住の泰族です。
泰族は独自の国家を形成していませんが、タイ、ミャンマーを中心に中国南部、ベトナム北部、ラオスにも分布しています。

小生の娘の隣、写真左端のおでぶちゃんがアコイの姉の娘のポポです。

彼女はヤンゴン大学の英文科卒で、もっと痩せれば美人になるのに、と言っているのですが「食べるのをやめられない」と色気より食い気を選んでいます。

この時に、ついでにゴールデン・ロックを見に行きました。がけっぷちに落ちそうで落ちない金色に塗られた岩があるところです。かつて、「世界ふしぎ発見」か何かでビルマの秘境として紹介されたところで、最近までは外人オフリミットでした。今は誰でも訪れることができます。

チャイテイヨウのゴールデンロック訪問

真夜中に起こされて、バスで寺参りに出発

赤尾氏とゴールデンロック

今回のミャンマー訪問時に、皆さんも写真で見たことがあると思われますが、ヤンゴンの東にあるチャイテイヨウのゴールデンロックを訪問いたしました。

まずは、右の写真をご覧ください。昔日本のテレビでも紹介されたことのある有名な岩です。当時は外国人立ち入り禁止でしたが、今では観光地と化しています。今回、ヤンゴンを離れて、この御仏のパワーあふれる地を訪れました。

ある朝、アコイに「起きろ。これから寺参りに行く」とたたき起こされました。時刻は夜の2時半。仏の国で「寺参りに行く」と言われれば快諾する以外に道はありません。拒否したり文句を言うと仏罰が当たり、今まで雀やドジョウを逃がして徳を積んできたのがすべてふいになります。

 寒いので長袖を用意する様に、と指示があり(実際は1日中暑くて死にそうでしたが)、時刻と服装で、どこかの山頂でご来光を拝みに行くと推測しました。暗い表通りに40人乗りぐらいのバスが待っていました。アコイの姉の旦那がチャーターしてくれたバスです。スティッカーを見るとバスは福井県観光バス協会所属のKeikan Busと判明。(もちろん当の福井県観光バス協会はそんなことは知りませんが)。

乗り込んだのは我が一家を含めて25人でほとんどタイ族。中に1人の日本人(小生)2人の日系タイ族(娘と息子)、1人のラオス系アメリカ人。姉の娘ポポがツアコン役。未だに姉の家族以外は誰が親類・友人で誰がお手伝いさんか区別がつきません。出発にもたつくのはタイでもミャンマーでも同じで、3時半近くにやっと動き出しました。

未明のヤンゴンの道路は暗く、沿道には延々とバスが並んでいます。操車場のない路線バスが、こうして夜明けを待っているのです。北は北海道から、南は鹿児島、沖縄まで日本中の中古バスの第二の車人生がここで展開しているわけです

道はまるで工事現場のような道でしたが、その内突然木が植えられた中央分離帯のある道に変わりました。不覚にもミャンマーの地図を持ってくるのを忘れたので、当時は目的地に着くまで何が何やら分かりませんでしたが、後付け情報によると、このまともな道は国道1号線で、450キロ北方にある新首都ネピドー(Naypyidaw)に続く道です。どうやら道路工事はネピドー側からスタートしたようで、南下してやっとヤンゴンに到達して、最後の部分が工事中だったようです。

まだ沈まぬ半月が煌々と左手に輝き、バスは北上していることがわかる状態。日本のバスのおかげで、ちゃんと乗降口の上に時計がついていて時刻が読めます。6時ごろ右手の地平線の空が赤く染まり、川を渡ります。後付け地図では、この辺で国道1号線から右に分岐して、8号線に入ったことになります。

ヤンゴンから北東へ80~90キロ行った比較的有名なペグーと言う町ですが、ミャンマーの地名は英国式と現地式の2種類が多く(ラングーンとヤンゴンのごとし)、小生も覚えていたペグーも英国式の名称で、現地語ではバゴー(Bago)であり、結局その時は「バゴーというところか?あ、そ」でやり過ごしました。

渡った川はペグー川でもちろんイヤワディ川の支流。バスは登る朝日を正面に見るので、東進を始めたのが分かります。それにしても、当初の予測では山頂でご来光を拝むはずでしたが、山頂どころか周囲360度山のヤの字も見えません。水田が地平のかなたまで続き、灌木の茂みが点在するだけ。さすが広大なイヤワディ平野!タイ中央部もかなりの平野ですが、このイヤワディ平野はそれ以上かも。タイの場合は、手前にいろいろなものがあって邪魔になり1時間以上も360度が地平線という景色はありませんでした。日本では見られない地平線が好きで、感激いたしました。

逆光に輝く道は果てしなくまっすぐに続きます。(国道8号線の道幅は片側1車線で、もちろん中央分離帯は無い田舎の普通の荒れた舗装道路。交差する道路がほとんどないため信号もありません)。時々牛が勝手に渡りますので、その時はスローダウンしますが、それ以外は交通量も少ないので、福井県のバスは一生懸命走ります。追い越しを掛ける時はかならずクラクションを鳴らして前の車の運ちゃんの目を覚まさせます。

7時すぎに、大きな川を渡ります。これがミャンマー3大河川の一つシッタン川(他はイヤワデイ川、チンドウイン川)。このころから前方に薄らと山が見えてきて、坂も登り坂になってきました。イヤワディ平野の東南端縁に到達した感じ。

トラックの荷台に乗り換えて、「落ちそうで落ちない岩」へ

8時半にやっとどこかの山の麓の町に着きました。福井県協賛の巡礼バスがヤンゴンを出てから5時間、約200キロの道のり。町の名前はネットの後付け情報によりますと「キンプン」とのことですが、確証はありません。(ここからさらに東南東200キロ、標高1,800~2,000mの山脈を越えればタイの北部のメソットに至ります)

ここで福井県のバスを降りて、大型トラックの荷台に乗り換えます。中国製の無名のトラックもどさくさに紛れて混じっていますがほとんどが ISUZU のトラックで、荷台に横方向に何列もベンチを通して、そこに座ります。さすがオンボロトラックでは客が集まらないのか、本当に空中分解するのか、中古にしては見かけは綺麗に整備されています。さらに乗客を安心させるためか、自己満足か、チャイナトラックも含めてすべてのトラックに「日産ディーゼル」の銘板が貼ってありました。「ん?いすゞは日産からディーゼルエンジンを供給されていたっけ?」と突然突きつけられたクイズに困惑。

トラックの荷台に乗って、ここで初めてポスターを見て「落ちそうで落ちない岩」を拝みに来たことがわかりました。昔「なるほどザワールド」か「世界ふしぎ発見」でみたことがあります。神秘の国ミャンマーに世界で初めて、特別許可のもとテレビカメラがはいり・・・てなキャッチフレーズでしたね。

後付けのインターネットで調べたら「チャイティヨーのゴールデンロック」とありましたが、KyaiktiyoとかKyaiktoとかKyaiktiyoeとかローマ字表記も定まっていません。荷台ではなくトラックのキャビンに乗るには特別料金がかかる、と表示があり、かっこ付きで(生命保険込み)とありました。

ジョークではなくちゃんとしたボードに書かれていましたので、「トラックが谷に転がり落ちてもキャビンのなかなら死なない」とか「保険があるから事故が起こっても大丈夫だ」とラオス系アメリカ人の男性と一緒に大笑いしました。(注:彼はアコイの友人の泰族の女性のダンナで、亡命ラオス人の息子でアメリカ生まれ。外観はてっきりタイ人に見えましたが、日本人と思えば日本人に見えます。今回結婚式参列の為米国から夫婦で参加)

麓のトラック駅からは恐ろしい急こう配のヘアピンカーブを、強烈な紫外線を浴びつつ頂上を目指しました。何台もの大型トラックが行き来し、どれも荷台は満席状態でした(半数は白人観光客)。昔はこの山道を巡礼者は徒歩で頂上を目指したと想像します。

上りのトラックは、単線運転の列車のように、下りのトラックが通過していくのを待つために、2か所ほど休憩所で停まります。そのたびにミャンマー人のあんちゃんが、手にアルミ製のお鉢を持ってやってきてビルマ語で何やら喋ります。同乗者のタイ族の半数近くはビルマ語とタイ語のバイリンガルなので、しゃべりの意味が分かり、何がしかのお札をお鉢に入れて寄付します。私は、幸いにもビルマ語を解せないので寄付は知らない振りをしました。

またまた蛇足ですが、ミャンマーでコインを見たことがありません。すべてお札でした。造幣局は予算がなくてコストがかかる鋳造コインが作れないのかな?

時計を持っていなかったのですが、多分上りで30分ぐらいのディズニーランド級のマウンテンドライブ。高度差は1,000メートルぐらい。頂上ではトラックをおりて、ゆるい上り坂を300メートルぐらい歩きますが、沿道に小さなマウンテントップホテルがあったのは驚きです。2本の太い竹の棒の中央に椅子を取り付けて4人で担ぐ「大井川の渡し」もあり、観光の花が満開です(その割には英文の説明看板も、パンフの類もありません)。

ようやく着いたゴールデンロック

岩に触れる範囲は、御多分にもれず女人禁制で、手前に柵が設けてあり、監視員が3人ほどいます。制服を見ますと、参道にあった「Police」の詰所に居た人々と同じだったので、警官と思われます。柵の中に入れない女性たちが、団体で岩に向かって読経しています。

カメラを持って柵内に入るのはダメ、と警官に言われました。ここからなら撮影はいいのかと、柵の入り口で聞くと、OKとのこと。柵からカメラを突きいれて撮影。柵内に入ったのと何が違うのか自分でも分かりません、しかもあの大きな岩に近づいて撮影しても何が何やら分からない。奇妙な規制でした(多分宗教上か?)柵内に入るために警官にカメラを預けると、カメラ預かり係ではない、というような表情をされましたが受け取ってくれました。

確かに不思議な物理バランスで、岩と崖の接触面を見てもただ乗っかっているだけです。接地面積も写真よりもはるかに小さなものです。しかも昔からあったので、そんな高度な技術を使ったとも思えません。

写真でも見るとおり、岩の上にはパゴダも乗っています。あれを乗せた人たちは、作業のおかげで岩のバランスが狂い、一緒に谷底に落下する恐れで怖くなかったのか、と今更ながら心配になります。

ニュートンの法則(?)から、偶然にも岩の重心点が崖っぷちに治まり、パゴダもその重心線にぴったりと沿って建てられたと解析しますが、摩訶不思議な光景です。近くでくしゃみをしたり、足踏みして岩を落とせば信者やミャンマー国家警察によってリンチされるでしょう。

小生も功徳を積むために岩に金箔を貼りました。あまり強く押し付けて衝撃で岩が落ちては大惨事になるので、そっと貼り付けました。金箔の半分は吹き抜ける風でどこかに飛んでいきました。

なぜ落ちないのか、とか、オーバーハングした部分の金箔は誰がどうやって貼ったのだ、と言う疑問に答えを求めるのは野暮な話で、ここはひたすらありがたい仏様のお力に手を合わせるだけでした。

それにしても照りつける太陽は強烈で、クラクラします。1時間ほど岩の近くの日かげを出たり入ったりしながら過ごして、トラックへ戻り、下山しました。

帰り道では、古都の遺跡を見逃してしまった

行きと同じように、カーブするたびに「ヒャーッ! キャー!」と叫びながら、12時過ぎに麓の町におりてきて、そこにあったこじんまりとしたホテルのレストランで中華の食事をとりました。やはりミャンマーでは、まともな食事は中華かタイ料理になってしまいます。これがタイならばクーラーがガンガン効いていて、ウエイトレスがさっさと食器を持ってきますが、ここ緬国では、クーラーはほとんど効かせていただけません。ウエイトレスもスローモーションで、2、3人分のお皿を持ってきただけで後が続きません。

食後、うだる暑さと、ばい菌はすべて殺菌されるような強烈な紫外線を浴びつつ福井バスは再び5時間かけてヤンゴンを目指します。

3時ごろ、Bagoの町で大きな金色に輝くパゴダが見えてきたと思ったら、バスはその寺の境内に入り、ゴミ捨て場のような駐車所に駐車(駐車場が満車のため、本当にゴミ捨て場だったかも)。みんな参拝のためにゾロゾロおりていきましたが、チャイティヨー岩で十分功徳を積んだと思ったので小生はバスにとどまり、窓からうだる暑さにとろけそうになって壁に貼りついているトカゲを見ていました。

このBagoは英国表示ではペグーのこと。後で調べたところ,モーン族王朝の古都で、見えていたパゴダは王朝遺跡のシェモードー・パゴダとのこと。それ以外にも寝釈迦などがあり必須の観光スポットと書いてありました。ペグーと知っていたら、トカゲの代わりにパゴダを見に言ったでしょう。残念!

バスの運ちゃんは追い越したり、追い抜いたりするときは必ず激しくクラクションを鳴らします。1号線に入り、交通量が増えてくると、クラクションを鳴らす頻度がやたら増えてきました。うるさくてたまりません。

その内、助手のおっさんが運転席直後の天井に付いていたテレビを固定する枠を外し始めました。そんな緊急を要さないことを業務中にするなよ、と呆れましたが、助手はよっぽど退屈だったのでしょう。しかし作業ははかどらず、枠は外れるわけでもなく、もとに収まるわけでもない宙ぶらりんの状態でかえって危険な状態に陥りました。

事ここに至っては運ちゃんも黙っているわけにはいかず、運転しながら、クラクションを鳴らしながら、助手にアドバイスしていましたが、ついに路傍にバスを停めて、2人がかりで作業を始めました。さすが日本製だけあって、枠は強固なもので10分ほど格闘していましたが、やっと外れました。外した枠を持って助手はバスを降り、手ぶらで戻ってきました。道端に捨ててきたか、通行人にプレゼントしたか、バスの床下の荷物室に入れたのかは定かではありません。或いは酒代稼ぎで売り払ってきたのかな?

ヤンゴンに戻ってきたのは夕闇が迫るころで、往復10時間、400キロのお寺詣りでした。

ヤンゴンの見所 

シュエダゴン・パゴダ

シュエダゴン・パゴダ

意外に見どころの少ないヤンゴンでも、ここだけはすべての人が訪れるのがシュエダゴン・パゴダ。

2012年の外国人入場料は500円ちょっとでしたが、2年後に行くと800円に値上がりしていました。家計を少しでも浮かそうとするタイ人の愚妻アコイに、外人とばれるからしゃべるな、と厳命されて、チケットカウンター横をとぼけてすり抜けようとしますが、敵もそんなに甘くはありません。係員がビルマ語で話しかけてきます。しゃべるな、と言われているが、そもそも何と言ってきているのか分からないので喋りようがありません。分からない、というビルマ語すら知りません。雰囲気で「ミャンマー人でない方は入場料をお支払ください」と言っているはず。

ビルマ語のバイリンガルであるアコイがビルマ語で応酬するが効き目はなく、アコイも折れてしぶしぶ払い、支払い済みのスティッカーを胸に貼ることになりました。

タイでは現地人にとけこむと喋らなければ絶対に「外人」とはばれないのですが、多民族国家なのにミャンマー人に見える条件を満たしていない様子。周囲を見ると、まず腰巻ロンジーを履いていない。そして長袖の白いシャツを着用するのが、この国の男性の正装で、Tシャツに普通のズボンでは第一条件でアウト。

先行したズボンをはいたタイ人組はみんなスティッカーを付けています。重点的に目を付けられビルマ語をしゃべらないのでばれたのです。アコイはズボン着用だがビルマ語をしゃべったので無事通過。

シュエダゴンパゴダのスケールの大きさには圧倒され、金色に光を放つ仏塔の高さは100メートルに達します。バンコクのエメラルド寺院ワット・プラケオがいい勝負かもしれませんが、お寺が勝負するということはあり得ないので、何とも言えません。

タイの寺院はどうしてもきらびやか過ぎて、色彩も派手で厚化粧の気配が濃厚ですが、ミャンマーの寺院は金色とグリーンの色彩の調和が取れていて落ち着きを感じさせてくれます。じっくりと参拝すれば半日はかかる規模の寺院です。

しかし2度目に訪れたシュウェダゴン・パゴダは仏塔が補修中で、竹の足場が覆い、下半分は金箔がはがされて赤茶色をしています。この大きさで炎天下や風雨にさらされるので、メンテナンスも大変。

ミャンマーの少年僧

タイでもそうですが、仏塔の周りには自分の誕生日の曜日ごとにお参りする場所が定められていますので、自分の誕生日が何曜日だったかは戸籍謄本にも記載がないので分からない日本人は「すみません」と身を細くして、タイ人やミャンマー人の軽蔑の視線を浴びたものでした。

しかし今回愚妻自身が自分の曜日を忘れたのです。「私は何曜日だった?」とか聞かれてびっくり仰天。自分のも知らない日本人にそれを聞くのか、妻とはいえそんなこと知るか、と呆れました。「火曜日だったか?土曜日だったか?」と言われたので、「時間があるから7つ全部まわれ。バチは当たらんだろう、いや、逆に褒められるかも」と提案しましたが、どうやらこの手は使えないらしく無視されました。

周囲はパゴダを背景に記念撮影する人々が多数いましたが、ほとんどが「ヌン ソン サー!」と言うタイ語の1,2,3で、いかにタイからの観光客が多いのかが分かります。

土森 注: スリランカ、ミャンマー、タイなどの上座部仏教では ブッダの姿は 月曜―日曜の7種類あります。人々は胸にブッダ像のペンダントのお守りをしていますが、これらは自分の生まれた曜日を表しています。例えば、火曜日生まれならば火曜日の仏像を見に付けることになります。

マンダレー旧王宮

また、ぜひミャンマーの古い仏教都市のマンダレーは訪れるべきです。マンダレーは地図で見ますと、小生も未だ訪れていないのですが、ミャンマー最後の王朝の都跡です。1885年にイギリス支配下のインドに攻め込まれて王朝は消滅。現在でもタイのチエンマイと並んで旧王朝跡地として静かなたたずまいを見せているところのようです。確かに、地図で見てみますと、四角い堀に囲まれて旧チエンマイ王国の都を連想させます。

夕日に映えるマンダレー王宮遺跡

パガン遺跡群

さらにパガン遺跡。ここは11-13世紀にタイのスコータイ王朝と並んで繁栄した仏教都市。カンボディアのアンコールワットやインドネシアのボルブドゥル遺跡と並ぶ世界3大仏教遺跡です。現在残されているパゴダ[仏塔]は約3000基。そしてその他歴史と由緒ある寺院やパゴダも見もののようです。

2016年8月のマグニチュード6.8の地震でパガンの仏塔遺跡の65基程がかなり崩壊。写真は地震の後砂煙をあげる遺跡群(この写真は地震の時のYahooニュースから)

ヤンゴンのアウンサンマーケット

イギリス植民地時代に建てられたと思われる古い大きな建築建屋の中が、市場になっている

観光都市ではないヤンゴンでも地元の人と、さらに外人観光客がよく訪れる場所が市の南部にある繁華街ダウンタウンのアウンサンマーケットです。

衣類や雑貨に並んで、ここには宝石の市場があります。マーケットの全体が巨大なアーケードなのかアーケードの寄せ集めなのか、アーケードからはみ出した店もあり、どこからがアウンサンマーケットかも分かりません。

タイのマーケットを見慣れている者には格段の文化的ショックは感じられませんが、宝石屋の集合密度は感心させられます。一流の宝石店レベルの店から、ナマズの干物も一緒に売っているのではないか、というレベルのコーナーもあり、まさしく「玉石混淆」の景観を見せてくれます。

マーケットの印象は明るくにぎやかですがミャンマー人の性格をよく表していて落ち着いています。驚いたことに長く続いた軍政のかけらも残っていません。何十年もこのような雰囲気で続いてきたのではないかと錯覚します。2007年にはこのマーケットから1キロも離れていない場所で、取材中の日本人ジャーナリストが反政府デモを撮影中に国軍によって射殺されましたが、そういうことは想像もつきません。2008年ごろから始まった民主化によって、急いで観光客用に整備したという急ごしらえの雰囲気はありません。観光客が簡単に入国できない軍政時代にこのマーケットはどのように商売を続けていたのでしょうか?不思議な光景です。

賑わっているアウンサンマーケット内のヒスイ等宝飾品売り場

ミャンマーの宝石資源は相当なものですが、主として翡翠とルビー、サファイヤ系に集中して、ダイヤモンドやキャッツアイのような種類は見かけません。装飾品としての金やプラチナの台座加工技術も香港や日本に比べると劣ると言われています。

並んでいる宝石は3種類に分類され、「本物」「加工品」「偽物」に分かれます、本物は説明の余地がありません。偽物はガラスやプラスチックなどで、これは本物の真逆の位置にあり同じく説明の必要もありません。

問題は「加工品」で、本物の宝石には違いないのですが、状態の悪い不良品の輝きや透明度などを薬品などでごまかして、高級品に見せかける、一種のドーピングをやらかしている代物です。経年変化を起こして元の貧相な状態にその内戻ってしまうのもなんとなく人間に似ています。中国にその加工工場があるとのこと。困るのは「本物」には違いないので売る側も堂々と「本物」と主張できることです。アウンサンマーケットの宝石市場にもこれらの出自が異なる「宝石」が無数に並んで、怪しい輝きを放ってお客を待っています。

土森 注:ミャンマーは良質のルビーとサフアイアの産地として、スリランカと並んで知られています。

この結晶はコランダムと言って天然の結晶ではダイヤモンドに次いで堅い結晶です。不純物が混じらない結晶は白い透明な結晶です。現在はコランダム結晶は人工的に作ることができます。そして世界中でメタル加工のためのト石のと粒材料として使われています。

このコランダムにわずかに0.数%のテイタンが混じると、ブルーのサフアイアとなります。またセレンが混じると、赤い発色のルビーとなり、これらの不純物の含有率の差で 色が濃くなったり薄くなったりします。両方が混ざったものは 赤紫色となり光の具合で赤く見えたり紫系の青い色になったりします。

最近では、良質の原石はスリランカでもミャンマーでも枯渇してきています。したがって原石業者は、大量に採掘できるこの色の白いコランダムの結晶原石を使い、わずかのテイタンやセレンを入れて、電気がまの中で1500度以上にして再焼成します。そうすると、上記のごとく色の安定したサフアイアやルビーになります。但し、色は高級な物で一見普通の消費者は区別が解らないのですが、光を当てた時の輝きは全く異なり、比較するとはっきりと区別できます。加工品は照り返しや輝きがおとなしい、沈んだ見映えになるのです。

土森がNYでテイファニーの宝石売り場でサフアイアの装飾品を見た時にびっくりしたのは、テイファニーは100%この加工サフアイアでした。スリランカを訪れる日本の観光客はこんなことは知らないのでまず間違いなく、この加工品のサフアイアを高い値段で押しつけられて買ってきます。皆さんご注意を。

ミャンマーの印象

最後にミャンマー訪問の結論を3段論法で表現しますと -

①ミャンマーは素晴らしい国である。昔のタイを見る様でなつかしさに包まれる。
②しかし、民主化によって急激に変貌しつつある。
③よって、なるべく早く訪問するべきである。

欠点は、インフラが整備されていないので、ヤンゴンでも停電、断水が日常茶飯事である。ビルマの食事は美味しくない。

と言ったところでしょうか。

おわり

あとがき (土森)

アウンサンスーチー国家顧問兼外相が主導するミャンマー新政権が発足して半年ほどが過ぎました。各国からの投資が拡大して、ミャンマーは順調に発展しているように見えます。

しかしかつての軍事政権が積み残した課題である少数民族武装勢力との和平や、今後の言論の自由をどう実現していくか?ミャンマー連邦制のポイントは地方政府の自治の拡大にあります。少数民族が多数派の北部7州は、連邦制の下、州政府の閣僚を公選の地方議会が選ぶ形となります。資源配分や教育などの分野で各少数民族の意思が尊重されなければなりません。そのためには軍政時代の現行憲法の改正は必須です。改憲に拒否権を持つ国軍の協力をいかに求めるかが重要です。まずは国軍と武装勢力との停戦の実現であるがその兆候は出つつあります。

今後タイのように持続的に経済社会発展していくためには、政権の安定と全土停戦が求められます。

ひとつ大事なことは、私見ながら、ミャンマーが民主化を続けて行くにしても軍の力、国政における軍の役割は、維持して行かなければならないであろうと思われます。軍が政治に関与するのを辞めるのは 少数民族との主要部族との和解ができてから。少数民族に一定の自治権を与えるにしてもビルマ族との統一的政府ができるまでは軍の役割を減少させるわけにはいかないからです。

欧米諸国から批判を浴びようとも、民主化のムードに乗って軍に政治関与を辞めさせれば、ミャンマーは再び社会的に不安定な国に逆戻りとなるでしょう。

あとがき (赤尾 2016年秋 チェンマイにて)

ミャンマー情勢を考える時、なんといってもアウンサンスーチーの動向が重要です。突然に大統領以上に権限を持つ、と宣言して世界を仰天させたりしています。なぜこういったことをするのかを現実面から考察して見ますと、やはり軍とのバランスが根底にあるのでしょう。

過去に行きすぎた理想的民主主義に走ったおかげで、逆に軍の反感を買い、クーデターを起こされ追放され苦汁をなめてきました。今の民主化も彼女の影響は大きかったのですが、スーチー自身の手によるものではなく、軍政権側のテイン・セインが始めたものです。この世界に例を見ない民主化の動きは、軍の畑に突然咲き始めた民主化と言う花で、絶対つぶしてはいけない、大切に育てていくべきものです。スーチーもそれを自覚しているのでしょう。そのためには、過激な民主化よりも軍と妥協しあって、慎重に進めて行こうとしているのでしょう。

彼女が率いる国民民主連盟(National League for Democracy, NLD)は軍事政権には抵抗した経験と実績はあっても、連邦国家を運営したり、経済を保持したり、領土の保全の経験はありません。やはり、ここは軍事政権側の協力が必要になります。

スーチーは近未来的には軍部が持っている利権を取り上げるのは得策ではないと判断し、その点で軍部と妥協したと思われます、また連邦を構成する様々な民族への安易な拡大自治権の承認も軍は認めないはずです(軍のナショナリズム的大義なのか、利権がらみなのかは分かりませんが)。

一方NLDの内部には、恐らく多種多様な意見と野望をもった人物がいるでしょうし、その中には理想民主主義者や、民族主義者や軍部解体論者も混在して、決して1枚岩とは言えないはずです。もしここでNLD内部のこれらの分子に権力を与えてしまったら、スーチーがせっかく軍と妥協して築いた約束事を反故にする恐れがあります。そんなことをすればすべては水泡に帰してしまいます。

それを防ぐには、スーチーがNLDや政府の最高の地位についてNLDや政府をコントロールし、軍の再爆発を抑えようとしているのかも知れません。何しろミャンマーの民主主義は脆弱で、理論や理想だけでは運営できません。スーチーが単なる民主主義者ではなく、現実改革主義者であれば、このような路線を取るのは賢明といえます。

彼女がすべきことは、細かな民主主義的改革ではなく、経済を安定、発展させインフラを整備することです。その過程で地方では必ず少数民族の不満も出てきます。主流派のビルマ族が、他の民族を圧迫しているという単純な構図ではなく、少数民族の中で他の少数民族を圧迫するという多重構造になっているのが、この問題の複雑なところです。この問題だけでも解決には長大な時間を要します。

とにかく人々の生活基盤を安定させ、生活を少しでも向上させるのが先決問題です。

スーチーが政権を握ったら、仕事がなくなった、食料品の値段が上がった、断水の頻度が高くなったでは、次の選挙では壊滅します。NLDが壊滅すれば、少数政党が乱立して、結局最大の軍部が再びコントロールします。NLDの安定が重要で、そのためには解決の難しい問題にあわてて取り組んで失敗し自爆するよりは、慎重に舵を取ればその効果が現れる経済とインフラ整備に専念すべきです。

そういう観点から、今のところスーチーは派手な政治パフォーマンスを演ずることなく、テイン・セインの始めた民主化への改革を継承している様です。スーチーが「鳴いたり飛んだり」するのは大変危険なことだと思われます。