私の大学キャンパス内で銃撃事件が発生

2023年の8月、学期が始まって間もない時に私が通っている大学キャンパス内で銃撃事件が起きた。

幸い事件当時、私はキャンパス内にはいなかったが、知り合いの安否確認を行う連絡が飛び交い、普段あまり気に留めないローカルニュースに釘付けとなった。

キャンパスにいた複数の友人は、机や椅子などで扉にバリケードを作り、電気を消した暗い部屋で息を潜めていたという。そのような行動が自然と取れたのは銃に関する事件の多さが起因しているであろう。

アメリカでの銃への近さ

アメリカでは至る所で学校での銃乱射事件があり、2023年だけで158件の銃発砲事件が起こり、45人が亡くなっている。学校内に限定せずに言えば、最新のデータである2021年には48,830人が銃関連の怪我で亡くなっている。そう、アメリカの人は、よく言えば銃に「慣れている」のだ。

最近では多くの学校でもactive-shooter drills(銃乱射対応訓練)が行われており、事件後、大学での訓練のなさを批判する声が出たほど、銃撃事件は十分起こり得る可能性として人々の頭の中に存在する。

確かにアメリカに来てから銃に関する事件を見聞きすることは格段に多くなった。引越し先を見学しに行った際に知り合いに「ここどうかな」と相談したところ、数年前に駐車場を巡り住人同士のいざこざがあり、銃で誰か撃たれた場所では、と返されたことがあった。

スポーツ用品店でテニスやサッカー用品の隣に何気なく狩猟用とは言え銃が置いてあるのを見て驚いた。よくお店とか公共の場の図書館などで No firearms or weaponsと書いてあるサインがあったのはこういうことなのかとその時は何気なく思ったのを覚えている。

大手スポーツ用品店Dicksの狩猟用コーナー。一般的なスポーツと同様に扱われている。
公共施設などでよく見かけるサイン

大学でみんなが集まって話した

大学からの警告テキスト

銃に関連する事件が半ば日常茶飯事とは言え、住んでいるチャペルヒルは比較的安全とされている場所だ。

みんなまさか自分の大学でという思いやその現場に居合わせたことにより、混乱しショックを受けていた。「安全だ」と信じて疑わなかった日常が壊されたのだ。その日、大学のみんなは誰かと一緒にいたり、話したりすることによって何が起きたのか整理したかったのか、自然と集まった。

みんな自然と集まり、事件当時「大丈夫だった」などと確認し合いながらも、他愛もない話題で日常を取り戻そうとしていた。

事件は、中国人留学生による指導教官銃殺

情報がより明確になるにつれ、中国人留学生による指導教員の銃殺だということが分かった。同じ大学院留学生として、彼が銃を持って指導教員を殺さなければいけないほど思い詰めた経緯に思いを馳せずにいられなかった。結果的に、容疑者は統合失調症で裁判を受けるには精神的に適さないと見なされ、病院での経過観察となった。

精神疾患を保持しているとは言え、同じ大学院留学生であることが非常にショックだった。それはなぜなら、自分がまだ1~2年目の時にアメリカ生活に非常に苦しんだ経験があったからだ。彼がやったことは断じてならないことだが、大学院留学生という言葉を聞いただけでなんとなく想像し得る状況が心を苦しめた。

この事件を受け、大学院留学生へのサポートの必要性がキャンパス内でも議論されるようになった。

背景にあったアメリカの個人間コミュニケーションの仕方

私自身、その後、アメリカに来た当初、何に具体的に苦労したのだろうと振り返ることがあった。当たり前のことかもしれないが、言語云々だけではなく、アメリカと日本では個人間のコミュニケーションの仕方が違うということに気づくまでに時間がかかった。

日本の場合は、相手のニーズを事細かく汲み取れることは重宝され、また場合によっては日本社会で生きていく上で必要なスキルとも言える。さらに言えば、対話する相手にも求めるスキルでもある。例えば、お店で「こういうことで困っているのですが」と言えば、日本の場合相手は「それでしたら、解決策A、B、Cありますがどうしましょうか」と対応してくれる。

しかしアメリカでは「気配り」とか「気遣い」はあるに越したことはないが、決して「必要」とまでされないように感じる。気遣いのしすぎは重宝されるどころか、自分がやりたくてやっていると受け取られ、いいように使われる危険性をはらむからだ。

アメリカはむしろ自分が何を必要としているかしっかりと言葉で伝えて、かつその具体的な解決策を提示することが求められる。

6年目にしてようやく、指導教員とのコミュニケーションの肝は自分が今何に苦戦しているかを伝えるだけではないこと、がわかった。むしろ何に苦戦をしていて、どういうサポートが必要か、そのサポートができるか否か、出来ない場合には違う誰かにお願いすることはできるかどうか、と非常に取引的かつ自分から積極的に主張する必要がある。

恐らくアメリカ人は小さい頃から自分の必要としていること、自分のneedsを口にすることを叩き込まれているのだろうと思う。

もちろんアメリカ人でも個人差はかなりある。気遣いをきちんと分かってくれて、それをまた気遣いで返してくれる人はたくさんいる。

でもこの数年間でもらったアドバイスは基本的にやはり自分が必要としていることをきちんと要求すること、自分のためにadvocate(主張する)することを学ばなければならない、ということだった。

例えば、ある動画で娘が自分の部屋に居座る父親に対して「私のプライベートな空間を侵害している、出ていってください」と要求した。それに対する反応は、その時感じている違和感をきちんと言葉に伝えることができたことに対する賞賛だったのだ。

日本に帰るとほっと一息つける気がするのは、自分の必要としていることをいちいち言語化する労力を省けるからなのだろう。「なんとなく」で伝わる安堵感といちいち自分がどう感じているかに対して意識を鋭く高める必要がない。曖昧さが残る社会はなんとも居心地がいいのだ。もちろんその曖昧さが逆に仇となることもある。日本での外国人受け入れが進まないのは、それが一つの要因であろう。

※ 本稿の筆者、村瀬里紗氏は、OBACの海外コラボレーターで、University of North Carolina, Chapel Hill, Department of Sociologyに在籍