はじめに – 私とアフリカ

私は職業人生の前半を中小企業で、後半を大企業で仕事をした。

前半の企業はオーディオ会社で、折柄の構造不況で他企業に吸収合併され、退職するか吸収した企業の大阪本社に移動するかを迫られた。

そのとき40歳でT社系大手自動車部品会社に転職できたのは、それまでの中小企業のオーディオ会社で小使いから社長の役割まで色々経験でき、又、20数か国の海外出張を通して仕事をする上でのノウハウを学び、国・人種・肌の色は違っても、基本的にビジネスは人と人とのおつきあいであることを身をもって経験していたから、と思っている。

因みに、名古屋の地下鉄で偶然声を掛けた男性は、ナイジェリア政府の役人で、一社の研修センターに来ていて友人になった。私がナイジェリアに出張した時も色々助けてくれて、今でも情報交換するベストフレンドの一人である。

大雑把に言って、中小企業時代は発展途上国が主な市場、大企業時代は米国、欧州が主な市場であり、色々なビジネススタイルを経験したが、その中で最も印象に残っているのはアフリカビジネスを担当した70年代後半から80年代前半のことである。 

それまでアフリカについて全く未知であった私が大のアフリカファンになったのは、現地出張の度に迎えてくれるアフリカの偉大なる自然と、仕事を通して知りあった人々との交流によるものであり、今も何人かとは折に触れメールやX‘masカードを交換し、ビジネス情報の交換をし合っている。

一口にアフリカといっても、東アフリカ、西アフリカ、中央アフリカ、南アフリカ、北アフリカで54ヵ国あり、人種、言語、宗教、風俗やビジネススタイルも違うので、ひとまとめに説明する事はできない。

以下、私が出張した国ごとの経験を思い出して書いてみたい。

1.東アフリカ ケニア

ビジネスの主流はインド人が握っていて、オーディオでもインド人商社を代理店にしていた。フィリプス等欧州系の製品が強く、ブランド力のない当社の製品は苦戦した。

アフリカの玄関口と言われるケニヤッタ空港は広大で、首都ナイロビは高層ビルが立ち並ぶ大都市そのもの、街を歩くと日本人とわかるらしく、ある若者が話しかけてきて、日本の歴史、文化などを聞きたいという。近くのレストランに入り聞かれるままに答えた。すると翌日ももっと色々日本の事を教えて欲しいというのでまた会った。そしてその翌日も・・・・。要するに、食事をおごって欲しいという体のいいたかりだとわかった。

この若者は日本人のお人好しをよく理解しているようだった。

2.西アフリカ 

1)ナイジェリア

人種は大きく分けてハウサ―、ヨルバ、イボの3種族で、それぞれ民族意識が高く、過去内戦を繰り返した。治安も悪い。 

北部ハウサ―族のテロ集団ボコハラムは凶悪。当時の首都ラゴス市内では、交通事故やリンチによると思われる死体を、毎日一体は見かけた。

オイルマネーで西部や北部に延びる高速道路が土民の集落の中を通るので、横断する土民が時々はねられ死体が転がっていて、一部は白骨化していた。私が最初に出張した時も、現地工場長から、死んだら火葬にするか、日本に送還するか、と真面目に聞かれた。

ここではラジカセCKD部品を完成品に組立てていたが、工場から盗まれた製品が浜辺の盗品マーケットで回っていた。工場のガードマンが結託していたらしい。現地人は白目が血走っている人が多く、就業時間中に目医者に行くと言って工場長が困っていた。 

幹線道路脇には放置された車が所々にあり、修理ができないので捨ててしまうようだ。強盗に襲われたコンテナも道路わきに転がっていた。 

ナイジェリア最大の港アパパでは、船会社がコンテナ貨物の盗難防止の為、ドアサイドとドアサイドを向かい合わせにしてドアが開かない様に工夫していた。  

この国は賄賂天国なので、空港の役人に封筒?を渡して入国通関時のトラブル防止策をしていた。おかげで税関を顔パスで通れ、色々な日本食を持込めて駐在員に大いに喜ばれた。その他のエピソードはここでは書ききれない。

2)コートジボアール

象牙海岸といわれ、昔は象牙が多く取れた。

ここの代理店のオヤジはユダヤ人で、なぜか私をかわいがってくれて、出張する度にお前を成功させてやりたいので今回はこれだけ買ってやる・・・と言って、毎回ラジカセを100台は買ってくれた。売れるまで帰ってくるなと上司から言われていたので、ホッとしたものだ。

ホテルに帰るとテレックス担当者が帰ってしまっているので、自分でテレックスを借りて成果を打電した。このオヤジは日本に出張してきても名古屋の本社は勿論、東京や大阪にいる時でも私を呼んで一緒に食事をしたり観光したりした。

ある時、日本人はmiddlenameがないからつけてやる・・・ Maximillian、略称Maxにしろという。以来、私はMaxと呼ばれるようになった。

日本でいえば名付け親である。彼はフジフィルムとホンダの代理店もしていて、そちらの方がずっと大きいビジネスの筈なのに不思議な関係だった。このオヤジとは、2002年の内乱以降、連絡が取れなくなってしまった。ユダヤ人の成功者として追放されたのかも知れない。

家族ぐるみの付き合いをしていたので、今でもどうしているか気になっている。

フランスは旧植民地を上手に現地化したので、首都のアビジャンはフランス風の街づくりできれいだったが、やはり民族は大きく分けても6つはあるので、混乱と破壊は避けられないのかもしれない。

3.南アフリカ

ヨハネスブルグの上空から下を見ると、プール付き、中にはテニスコートまである大邸宅があちこちに見えた。

ここでも現地企業と合弁でラジカセのCKD部品を組み立てて完成品にしていた。工場はピータースバーグという南アの北端にあり、もう少し行くと隣国のジンバブエ(昔の南ローデシア)であった。

車で行くと5~6時間かかり、途中人食い人種がいるという地域を通るので毎回ガソリンは満タン、食料も買込んで万全を図った。飛行機の場合は8~9人乗りのセスナ機で飛ぶが、風がふくと揺れるので怖かった。しかし、地上に動物が見られる所もあり楽しみでもあった。

工場には現地人の他にインド人女性の移住者が何人かいた。肌が同じように黒いのでどう見分けるかきいたら、髪で見分ける・・・インド人はストレート、現地人はカールということであった。因みに、工場の班長、工長はメモ用の鉛筆を我々の様に耳に挟むのではなく、髪に挟んでいた。カールしているので落ちないし、眼鏡をしていても邪魔にならないとの事で感心した。

日本人の工場長は、娘が現地化して、学校の休みの時はミニスカート、胸が覗くセクシーないでたちでボーイブレンドとデートに出かけるので、困っていると言っていた。

1994年にマンデラが大統領になり、アパルトヘイトの白人社会が一変し、かなりの白人が英国や隣国に移住したらしい。しかし、工場の白人マネージャーは成功しポジションを確立していたので、ヨハネスブルグの生活をエンジョイしているようである。3年前に日本に来て旧交を温めた。ヨハネスブルグは高地にあるので、日本人の奥さん達は肌があれて困るとぼやきっぱなしだった。

4.ナミビア

1990年に独立したがそれまでは国連により南アが委託統治していた。委託統治する南アが隣国アンゴラの武装集団SWAPOと紛争を繰り返していた。

出張した時は、前線で商売をする戦争商人と会ってラジオを売るというので、首都ウィントフックの喫茶店で代理店のオヤジと一緒に面会した。彼は日本でも戦時中使ったゲートルを巻いていて、前線から戻ったばかりの雰囲気で怖さを感じた。自社のラジオは平和な時代の楽しみの為に使われているとばかり思っていたのに、戦争に利用されていると知った時は愕然とした。

ナミビアの港は西部の大西洋岸のウオルスベイにあり、世界最古と言われるナミビア砂漠が広がるすぐ近くである。そこに行くには2~3時間かけてサバンナ地帯を通るのであるが、何と途中でタイヤがパンクしてしまった。スペアタイアも空気が抜けていた。

こちらは気が動転してしまったが、代理店のオヤジは落ち着いていて、夕方までには車が通ると思うからスペアタイアを借りようと言って、持っていた本を読みだした。スプリングボックの動物などが顔をみせたがこちらは楽しむ余裕などはなく、もしこのまま車が通らなかったら死んでしまうのかな、と少なからず思った。しかし、彼の予想通り1時間後位に後続の車がきて、スペアを貸してくれて一命をとりとめ、無事ウオルビスベイの港に着いた。

ナミビアは殆ど雨がないので、家の庭は枯山水的であるが、代理店のオヤジはプール付きで超成功者だったと思う。日本に来た時はパンク事件の事もあって、錦三の超高級スナックに連れて行った。その日は中日×巨人戦があって、王が来店して私が興奮して彼に超有名なベースボールスターだと説明したが、彼は何の興味も示さなかった。

私の説明が下手だったのか、そもそもベースボールを知らなかったのか。

ウィントフックの小高い丘のレストランで一緒に食事をして外に出た時に、ひと際大きい星が煌いていた。あれが南十字星だよと教えてくれた。その何年か後、テニスプレー中に心臓発作で急死したと奥さんが連絡をくれた。大事な友人を亡くして今も残念でならない。ここはドイツの植民地だったので、ドイツ語の地名が多かった。独シェンカーの駐在員とも仲良くなったが、ヨハネスに転勤して便りが途絶えた。

5.北アフリカ

1)モロッコ

ここもインド人商社を代理店にしていた。どこの都市でもそうであるが、インド人は仲間内のソサイアティーを作るのに長けていてコミュニケーションを取り合い、上手に商売に結び付けている。

オーディオはあまり売れなかったが、映画のビデオを沢山売っていた。会議でコーヒーブレイクした時にちょっと事務所の裏を覗いてみたら、何と録画装置が何10台と置かれダビングをしていたのである。勿論、海賊版はモロッコでも違法だが、インド人は何でも商売にする才能があり本当に感心する。

この代理店はタンジールにも支店がある。タンジールに入るにはスペインの南端ジブラルタルのアルへシラス港からフェリーで入るが、2時間前後で風景も人々の顔つきも言語も一変してしまうので、世界は近くて遠い、遠くて近いをいつも実感する。

カサブランカへ入るには色々な方法があるが、私はスペインのマラガからバスでアンダルシアやコスタデルソルを通って、ジブラルタルからタンジール経由でカサブランカへ飛ぶことが好きだった。バスはアンダルシア地方の所々で休憩するので、バスターミナルのバールでセルベッサやカラマリを楽しめた。

2)メリリャ、セウタ

両方ともモロッコ大陸にあるが、スペイン領である。関税のかからないFree Zoneになっていて、スペイン人やその他欧州から避寒にくるリゾート客が多く、この客相手にオーディオ製品を売っていた。

代理店はやはりインド人商社。こういう小さなリゾート地に働きに来るのは、インド人でも貧しい家庭出身の若者が多いらしく、早く家に仕送りする為にスペイン語は3ヶ月で覚えてしまい、小遣いも節約していると言っていた。一緒に食事をしても本当に質素なものしか注文しなかった。インド人は勤勉で家族を大事にすることを実感した。

3)アルジェリア

売り先は社会主義国の公団であるため商社を利用した。

現地に入ってみて初めて木曜日金曜日が休みだと知って、勉強不足を恥ずかしく思った。

商社の担当者が公団の責任者と面談を取付けたが、何かお土産は持ってきたかという。これも全く気が付かなかった。やむを得ず、中継地のパリのドゴール空港で自分用に買ったブランドのネクタイやベルトなどを差し上げることになった。結局この時は成約できずに大いに損をした気持ちだった。

ホテルは安全の為、アルジェの最高級のホテルを予約したが、バスの湯が出ない上洗面所のカランも壊れていたので、部屋を替えて貰った。それを商社に連絡するのを忘れていて、車で迎えに来て貰った時は面談時間ギリギリで冷や汗をかいた事も忘れられない。

このホテルはカスバに近く旅行者は近寄るなといわれていたが、元々好奇心旺盛なので、恐る恐るカスバに入ってみた。建物の間の道をぐるぐるらせん状に下って行くだけで、行き止まりがなく、所々にたむろしている人々がこちらを見るので、怖くなって途中できた道を走って引き返した。走っている途中は帰れなくなったり、襲われたり、こんなことが会社にしれたら・・・と思ってホテルに戻った時はどっと汗をかいていた。

ここでは私のフランス語でも多少は通じたので、語学の勉強も怠ってはいけないと痛感した。