カザフスタン共和国の概要

カザフスタンは、ソビエト連邦崩壊後の1991年12月16日に、カザフスタン共和国 (以後、カザフスタンと呼ぶ) として独立した。

カザフスタンは、世界第9位の広大な国土面積2,717,300㎢を持ち、ユーラシア大陸の中心に位置している。ロシア連邦、中華人民共和国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海、アラル海に面している (図1)。

国土の大部分は砂漠や乾燥したステップで占められ、そのため人が住める所は少なく、人口16,967,000人 (2013年:世界第61位) の大半は、首都アスタナや最大都市アルマティ等の一部の地域に偏在している。377,914 ㎢ (世界第60位) で人口125,358,854人 (2010年10月1日時点の確定値) の日本とは対照的である。カザフスタンは、カザフ人、ロシア人、ウクライナ人、ウズベク人、朝鮮人等からなる多民族国家で、公用語はカザフ語とロシア語である。

広大な国土での農業形態は、北部の乾燥したステップを中心とする穀物生産地帯、中部から南部にかけての放牧を主体とする畜産地帯、南部のシルダリヤ川等流域に広がる灌漑農業地帯 (綿花、果物、メロン、ウリ類、ブドウ等の産地) に三分される。

石油・ガス等数多くの資源が埋蔵するカザフスタンは、中長期的な潜在性は高いが、製造業の基盤が乏しく、輸入依存度が高い。独立直後の経済状況に比べ、著しい飛躍を遂げているが、これは鉱物資源輸出の天然資源依存型である。高度な技術力や経営ノウハウ導入によるソビエト連邦時代から残る産業構造の転換が大きな課題で経済特区を創設するなどユーラシア大陸での地理的優位性を訴え、外資誘致などの積極的な政策を展開している。

図1 カザフスタン共和国

見聞体験記

私は欧州復興開発銀行 (EBRD: European Bank for Reconstruction and Development) のプロジェクトに参加する機会を得て、2007年9月から2013年5月まで、カザフスタンで3つの企業を指導した。カザフスタン訪問中に私が見聞・体験したことを以下に紹介する。

指導企業の所在地と移動

中部国際空港―ソウル(インチョン)―アルマティ空港(カザフスタン、写真1)間はアシアナ航空、カザフスタン国内はエアーアスタナで移動、季節風の状況で差があるが、ソウル-アルマティ間は、約6~7時間のフライト。3社のA社:アルマティ―シムケント、B社:アルマティ―アスタナーコスタナイ、C社:アルマティ―アクトベ間を移動した。

出張移動中に数回のトラブルに遭遇した。トラブルで一番困ることは、各航空会社は韓国語、ロシア語で説明するため状況把握できないことである。とにかく、片言でも英語を話せる人を見つけて状況を把握し、今まで何とかトラブルに対応することができた。

写真1 アルマティ空港
写真2 アルマティ市郊外の丘で(筆者)
写真3 綿花畑
写真4 移動途中に車中からラクダ撮影

シルクロードと天山山脈

写真1、2はアルマティ空港及びアルマティ市郊外の撮影で、遠くに天山山脈が見え、アルマティーシムケント間は天山山脈に沿って約1.5時間のフライトである。天山山脈は、中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至るかつての歴史的な交易路シルクロードと関係があり、長安-天山回廊の交易路網はユネスコの世界遺産に登録されている。

最初のA企業は、カザフスタンの州都シムケント(図1)近郊に4工場を持つ綿花加工の大手企業である(写真3)。創業の地ムラザケント工場をモデル工場として指導し、他工場へは水平展開した。シムケントから約250㎞、ウズベキスタンの首都タシケントまで国境を介して約30㎞の所にあるムラザケント村を訪れる日本人技術者は珍しかったようである。

移動途中に牛、馬、羊等の放牧風景をよく見かけたが、ラクダは珍しく、車中から撮影した(写真4)。カザフスタンでの宗教は、イスラム教47%、正教会44%、プロテスタント2%、その他7%の比率構成で、写真5は別工場近くの有名なモスクを撮影したものである。

首都アスタナ

アスタナ(Astana)は、カザフスタン共和国の首都で1997年にアルマティから遷都された。1998年のカザフスタン政府主催の国際コンペで1位に選ばれた日本の建築家・黒川紀章の都市計画案に基づき開発が続けられている。

A社責任者にアスタナ遷都の理由を尋ねた時、非常に分かり易い以下の説明をしてくれた。①アルマティは国境にあり、活断層のある地震多発地帯であること。②地形的に更なる発展に限界があること。③アスタナはカザフスタン中心部近くに位置していること。

スターリンの強制移住

A社各工場巡回中での通訳者の話によると、スターリンの強制移住政策がカザフスタンの多民族国家に影響しているとのことであった。旧ソビエト連邦地域で民族問題が発生しているのは、この政策も影響しているようである。

写真5 シムケント郊外工場近くのモスク
写真6 初めてB社訪問時に撮影(左社長)

 バイコヌール宇宙基地

ソビエト連邦時代の1955年にバイコヌール宇宙基地が建設され、私が小学校6年生の1957年10月4日、ソビエト連邦の人類初の人工衛星「スプートニク」が打ち上げられた。当時、私は試験の時に答案用紙の裏にスプートニクの絵をかいた。先生が父兄会でそのことを紹介したと母親が笑顔で私に話していたことが今でも脳裏に鮮明に焼き付いている。このスプートニク打ち上げは幼年時代の私には青天の霹靂であったが、米国では強烈なスプートニクショックとなり、後のアポロ計画や1969年の月面着陸成功にもつながっていくが、現在世界中で使用しているインターネット誕生のもとにもなった。

ソビエト連邦による米国への核弾頭投下が技術的に可能になり、タイムシェアリングシステムから一部システムが破壊されても機能する分散型ネットワークシステムの開発に着手することになった。これがARPANET (Advanced Research Project Agency NETwork:国防総省高等研究計画ネットワーク) 計画で米国内の大学や研究機関がネットワークで接続され、研究に取り組んだ。

私は昭和50年代半ばから60年代初めにかけて先端技術の収集目的で米国の大学や研究機関を訪問する機会が多々あった。当時、ARPANET計画の研究成果は着実に実を結んでいた。以後の技術公開でインターネッの世界への爆発的な普及は記憶に新しいところである。

 ルドヌイにある製粉事業主体B社の二人の創立者と年代が近いせいか仕事以外のことも色々と話をした(写真6:2010.11.20午後、気温氷点下12℃ )。“ソビエト連邦時代にビートルズを知っていた?”と尋ねると、“電波傍受でこっそり聞いていた”と・・・。また、“バイコヌール基地から人工衛星が打ち上げられていたのを知っていた?”の質問には、社長相棒の経営者は、当時、バイコヌールの近くに住んでいてロケットや衛星が基地から発射されると、天候が大きく変化するとのことであった。ロケット発射で大気圏に穴があき、その影響で大気に冷たい空気が大量に流れ込み、天気が一変するのだ、という話は初めて聞く事柄で、私には非常な驚きであった。なお、バイコヌール宇宙基地はロシアがソビエト連邦崩壊後から2050年まで租借する予定になっている。

アラル海

C社は、コンビナートの大手企業で、私が訪問したアクトベにある製粉工場でアラル海に関する話を聞いたのは、C社の経営者からであった(写真7)。

アラル海は中央アジアのカザフスタンとウズベキスタンの国境をまたぐ地域にあり、かつて世界で4番目に大きな湖だった。アラル海には1960年代までアムダリヤ川とシルダリヤ川の2つの川が注ぎ込み、雪解け水や雨水が流れ込んでいた。しかし旧ソビエト連邦が60年代、農業用水を確保するため、この2つの川の流れを変え、水を運河に流入させた。

この影響でアラル海は縮小を始め、塩分濃度が上昇。肥料や化学物質で汚染された湖底が露呈し、消滅の危機にさらされている。豊かな自然・環境も改造計画で結果的に環境破壊という状況を招いているということであった。

3.11、福島原発事故とセミパラチンスク

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による福島第一原子力発電所事故は、日本人にとっては忘れられない日である。状況は異なるが、チェルノブイリ原子力発電所事故は、旧ソビエト連邦邦時代(現在はウクライナ)に起きた。セミパラチンスク核実験場は旧ソビエト連邦のかつての主要な核実験場であった。

B社社長は幼年時代にセミパラチンスク近くに住んでいた。カザフスタンの人々は、歴史的な状況から原子力や核のことをよく認識しており、当時指導中のB社の皆さまから東北地方太平洋沖地震に関して非常にご丁寧なお言葉をいただいた。

日本語、英語等の教育

アルマティ滞在の時は、市内のInternational Hotelに宿泊した。ある時、部屋での仕事よりホテル近くの喫茶店で仕事をしたくなった。パソコンを持参して喫茶店で仕事をしていた。

すると若い人が私に“日本人ですか?” と尋ねたので、“そうです”と答えると、“私の友達の学生が日本語を勉強している。今から電話をかけるので話をしていただけませんか”と依頼され、彼の要望に応えて全然知らない学生と電話で約30分間日本語で話をした。

また、ホテルから空港へ移動している時、タクシーの若い運転手が英語でしきりに話しかけてきた。その若い運転手は大学で土木工学を専攻しており、英語習得目的にホテルでアルバイトをし、英語を話すお客に機会を作って英語を勉強しているとのことであった。

これらに似た経験は、カザフスタン滞在中に何度か経験した。学生の非常に熱心な向学への熱き心には非常に感心している。

 ある時、B社社長に日本語のビジネス漫画を紹介した(写真8)。社長はビジネス漫画と内容に非常に興味を示し、この漫画を“欲しい”と言った。“日本語で書かれているが、いいですか?”と尋ねると、社長の次女が現在大学で日本語を専攻しており、彼女に翻訳させるとのことであった。

アルマティから次女が故郷に帰ってきた時に会社を訪問してきた。彼女と日本語で話をしたが、日本語をかなり習得していた。その後、漫画翻訳はどうなったのか聞いていないが、非常に意欲的な社長なので、きっとロシア語に翻訳して経営に大いに役立てているものと考えている。

写真7 後左C社役員・部長、前右通訳者
写真8 前右B社長と次女、後左通訳者

おわりに

『百聞は一見に如かず』という諺があるが、私にとっては、この諺はまさに至言である。カザフスタン訪問前は米国やアジア沿岸諸国へ行くことが多かった。それまでは旧ソビエト連邦時代のことや中央アジアのことはよく知らなかった。しかし、カザフスタンへ行く機会ができて色々なことを直接見聞するにつれて私の世界観は大いに広がっていった。

カザフスタンの若い学生が英語や日本語を積極的に勉強している。ウズベキスタンやキルギス等でも似たような状況であると聞いている。中央アジアは、日本であまり知られていないようで遠い国のことと思われている。

しかし、特に歴史的な問題もなく、日本ファンの人も沢山いる。カザフスタン等中央アジア諸国と日本の交流が、今後より盛んになり、Win-Winの関係が構築されてますますお互いに発展していけるようになることを期待している。