はじめに

2018年7月から2019年8月まで、独立行政法人国際協力機構(JICA)の「パキスタン国自動車部品製造技術移転プロジェクト」に専門家として参画し、貴重な経験をしました。

プロジェクトは2015年9月からの4年間ですが、健康理由による前任者の交代要員として途中参加しました。目的は、現地自動車部品製造会社の生産性と品質を現場で指導し向上させることです。また、パキスタン中小企業開発局 (SMEDA) 職員、自動車部品工業会 (PAAPAM) 技術者及びコンサルタントに対してOJTで「日本式もの作り」を指導し、本プロジェクト終了後もカイゼン活動が継続できる仕組みをSMEDA、PAAPAMと合意した形で構築することです。

独立71周年 (2018年8月)

パキスタンは、昔に習ったいわゆる西パキスタンで日本語表記はパキスタン・イスラム共和国です。1947年8月14日にインドより独立しました。

右の写真は、独立71周年を祝う ホテルロビーの飾りです。昔習った東パキスタンは、今はバングラデッシュ(1971年にパキスタンより独立)です。

日本が第二次世界大戦終結を意味するポツダム宣言を受諾したのが1945年8月14日で、その2年後にパキスタンはインドから独立しました。国としての新しい出発がほぼ同じころだった2つの国の経済的発展には大きな違いがあるのを見ました。尚、治安上の理由で観光地には全く出かけられませんでした。

私が見たのは、パキスタンの大都市カラチとラホールの近郊にある日系自動車メーカー(4輪メーカー4社と2輪メーカー2社)の現地部品サプライヤーへの移動中の車窓や支援先企業でのことです。パキスタンの古代遺跡やK2峰等の素晴らしい大自然を紹介できないのは残念です。

1. お酒

パキスタンの国産ビール

最初はお酒の話です。イスラム国ではお酒が飲めませんというか、一般にレストラン等で目にすることはなく、宴会や会食でも出されません。

それでも、パキスタンにはマリービールという国産ビールがあります。外国人やイスラム教徒以外の人は、Permit Shopで購入できます。日本人は、顔パスで窓口に案内してもらえます。

写真の緑色のClassic Lagerは、まさにLager Beerの懐かしい苦みがあり楽しみました。また、右端のWheat Beerは白ビール、バァイツェンビールです。これもおいしかったです。赤色のビールはアルコール分が9度と高く敬遠しました。

ラホールでの滞在ホテルには、敷地内にPermit Shopがあり、ホテル内の日本食レストランではお酒が飲め、ホテルの1室がバーになっていました。ウイスキーもありますが、アルコールと呼べるものではないというのが個人的評価です。2ヵ月を超える長期出張、お酒に助けられました。

2. 婚約披露宴

太鼓の音と共に にぎやかに

PAAPAMの技術者から婚約披露宴への招待があり、出席しました。パキスタン文化に触れることができました。

外から大きな太鼓の音が聞こえてきたので何かと思えば、本日の主役の登場でした。相手の方もほどなく現れ、二人並んで写真に納まりました。

パキスタンには、彫が深く目が大きくパッチリで、美男、美女が多いようです。パキスタンで女性の写真を撮るのは断られることが多いのですが、この日は何枚でも撮れました。

本日の主役の登場

この2人は、1年後くらいに結婚する予定との話でした。いつ結婚するかは、カップルにより異なるようです。尚、パキスタンでは、平等に扱うことで四人まで妻を持つことが許されています。

最近結婚した人が、1年に一人ずつ相手を作りたいと言っていたのには驚きました。

披露宴での食事には、定番の料理がいっぱい出されました。パキスタンに来て、どんな料理が出るのか不安な面もありましたが、どこに行っても同じような料理が出て、ある意味心配なく食べられます。

婚約したお二人

チャパティーやナンに限らず、スライスしたキュウリや玉ねぎのサラダ、ビリヤニ(大きなチキンが入った辛い米料理)、ヨーグルトは、いつでもどこでも出される料理です。「プラオ」と言って、パッと見は「ビリヤニ」に似ていますが、辛くないピラフのような料理もあります。

米料理があるのは、日本人にとっては救いです。また、色々なカレーと食べるには、厚いナンではなく、薄いチャパティーが適しているというのが、私の感想です。

デザートもいくつか出されますが、とても甘く、辛い食事に極端に甘いデザートの組合せは、辛い食事をする国では共通の様です。韓国でも同じ経験をしました。

3. 車窓から感じたパキスタン

ラクダ

車窓からのパキスタン見学は、好奇心を少しだけ満たしてくれました。

8月にイード(犠牲祭)があり、通りの角ごとに居た数多くのヤギは、イードを境に全くいなくなり、人間の胃袋に納まったようです。お金がある人は牛やラクダも食べるようです。

ラクダは、車の中の人が持った綱に引っ張られ走っていました。イード後のホテルの朝食バイキングには、ベーコンやミニステーキとして牛肉も多く出されました。

大都会カラチやラホールのメイン道路でも決してきれいではなく、ゴミが散乱していました。日本でも高速道路出口近くの高架下等にゴミが捨てられているのを見かけますが、そんな状態が道路に沿ってずっと続いています。

リキシャ(3輪タクシー)に乗ったお父さんが食べたバナナの皮を道に捨てると、隣に乗った子供もバナナを食べ終わると道に捨てました。パキスタンの町がきれいになるのには、時間が掛かると感じた時でした。

ラホールからカラチへの機内で隣り合わせた大学教官との会話で、「パキスタンについてどう思うか?」と聞かれ、色々と話をしたその中で、この人は自分の子供を最高の学校に通わせており、子供について全く心配していないとのことでした。しかし家庭内でのゴミの扱いについて、子供に教えることはないとのことでした。日本の国の強さは家庭教育にもあると思いますが、日本でも少しずつ変化が起こっています。今後も日本が成長発展していくのに重要だと思います。失いたくない日本の良さだと認識させられました。

デコトラ

町を走っているバスもリキシャも、そしてトラックも、ペンキでデコレーションされています。埃をかぶり、きれいとは思いませんが、パキスタンの人は目立つのが好きなようです。

パキスタンには、多くの日本の中古車が走っていますが、〇〇スイミングクラブ、△△温泉旅館等の表示が残ったままのマイクロバスも多く走っています。乗用車はほとんどすべてが日本車です。欧州の高級車は、何台か見た程度でした。

2輪車も中国メーカーの低価格バイクが販売されていますが、耐久性に歴然とした差があるようで、日本メーカーのバイクが多く乗られています。経済的理由で中国製バイクを買う人も、日本製バイクに乗り換えるようです。125ccのバイクに家族5人が乗る国ですから、耐久性が重要になるのでしょう。

頭から長いスカーフをかぶり横座りに後席に乗る女性が多いのが、とても心配です。法規制が厳しくなり、 ドライバーはヘルメットをかぶるようになりましたが、同乗者はヘルメットなしです。ヘルメット着用の意味が理解されていないわけではないと思うので、国としての取組が期待されます。

4. 政府開発援助(ODA)

ホテルのエレベータの中や、支援先企業の現場では、ほぼ毎回「ニイハオ」と声をかけられました。中国の一帯一路政策の影響はとても強いです。中国人が大挙してパキスタンに来て仕事をしているので、目立つのでしょう。ホテルにも多くの中国人が滞在していました。

私は日本人で、「こんにちは」の挨拶をつたえると、日本は良い国だと喜ばれました。日本とパキスタンは、綿織物産業をはじめとして長く友好関係にあり、経済大国となった日本はパキスタンへの米国、英国に次ぐ第3の経済援助国です。国内産業を育成し輸出を増やすことは、一足飛びにできる事でなく段階を経た努力が必要であり、政府、経営者の一層の努力が求められています。

技能オリンピックの1競技

パキスタンで初めて訪問した会社で感じたのは、「ゴミが落ちている」ではなく、「ゴミ箱の中で仕事をしている」でした。図面に記載された材料の仕様や納期を守ることは当たり前であり、逸脱できない事であると理解することから始めなければならないのが現状でした。

現場での教育指導を続け改善していきながら、パキスタンで初めての技能オリンピックを企画し、実施しました。技能レベルはパキスタン国外と比較できるレベルでないのですが、国内の他の会社と比較して、自分たちのレベルを見る良い刺激になったと思います。

PAAPAMは「今後も継続して実施する」と表明、パキスタン製造業の発展に寄与していくことを楽しみにしています。その結果、パキスタンの日系企業の生産、製品にも寄与していくものと思います。市場としての魅力が高まっており、2020年以降、欧州や韓国メーカーの現地生産開始のニュースが流れています。

プロジェクトのパキスタンでの活動も終わりに近づき、一緒に活動してきたSMEDA、PAAPAM、現地コンサルタントの関係者が送別会を開いてくれました。お酒はなく、ソフトドリンクを飲みながら、ギターを弾き歌い、パキスタンと日本の国旗が書かれた手作りケーキも用意され、あたたかな会でした。バーベキューパーティを開いてくれると聞き、早く行って準備の手伝いをしようと張り切っていたのですが、焼き手はプロがいて食べるだけでした。これも、国の違い、文化の違いなのか。

国旗が描かれたケーキ
肉を焼く仕事
水タバコ

パキスタンの人は、こういうパーティーを楽しんでいるのかと思っていたら、水タバコが出て来ました。皆さんそれぞれに楽しんでいました。パキスタンがさらに発展していくことを強く願い、パキスタンを後にしました。