はじめに
私は2001年から5年間シンガポールに駐在、そのシンガポールに国境で隣接したマレーシアのジョホールバルで2011年から6年間駐在していました。
中でも一番驚いたのは、資源もない、小さな国土、少ない人口、強みの無い国だったシンガポールが、どのようにして今のシンガポールにまで発展できたのか?
今の大成功したシンガポールを見て驚くことは間違いないのですが、ここに来るまでの努力と信念を知ることにより、そこからの新たな驚きから学ぶものがある気がします。
今回は、観光地とかの紹介ではなく、1965年の独立前後からの道のり、なぜシンガポールが放りだされるように独立に至ったか?その後のクリーンなシンガポールとしての発展について触れたいと思います。
やっぱり、リー・クアンユー
今回、本原稿執筆にあたりYouTubeをのぞいてみました。お笑いの人気YouTuber中田敦彦氏が、『独裁でシンガポールを先進国に』(36万回再生)という題でリー・クアンユーを取り上げていました。彼はネタ本として、「リー・クアンユー回顧録」を下地に解説していました。
私は同書を、シンガポール駐在時代、一時帰国の際、日本で購入したと思います。今はすでに絶版になっていて、古書としてとんでもなく高い価格 (上下巻のうち上巻だけで5万円近い値段) がついています。

アマゾンの口コミに記載されているように、(引用長くなる)
[日本版への序文、「第三章日本の侵略」(P27~60)に、著者リー・クアンユーが実際に身を持って体験した当時の日本軍・日本兵の行動の様が描かれている(特にP40に描かれている慰安所の様子は読んでおきたい。―シンガポールでの日本軍による華僑の虐殺など日本人として)読んで面白くないことも書かれているが、(現地に追悼施設あり)この本が世界各国で翻訳され多くの人たちが読んでいることはいやでも消せないことだし、その先に現在・未来のお互いの真の理解を築いていく必要がある。しかし、古本の価格が一時期10万円を超えたというのは解せないが、図書館なら蔵書として持っているだろうから一読をお薦め]
明るい北朝鮮、Fine Countryの背景だけではなく、シンガポールというものの歴史を踏まえた理解の為には必読書と思いますが、かなり上下巻で分厚く合わせて1,000ページあります。以下の記述や写真も、多くを同書に典拠しています。
独立までのシンガポールとリー・クアンユーの歴史
シンガポールは1965年にマレーシア連邦から独立しました、資源のない、国土も狭い、人口も少ない小さな後進国(開発途上国)でした。そして開放的な独裁国家としてリー・クアンユーのリーダーシップで発展しました。第二次世界大戦中、英国統治から日本の占領時代の3年半を経過して英国管理下の自治州をへて1965年にマレーシア連邦からほっぽり出されるようにシンガポールの独立はなされました。
開発独裁とも形容でき、発展途上国がワントップ体制で急速な発展と近代化を遂げ、彼はシンガポールの国家的ヒーローとしてリーダーシップを発揮しました。
世の中では、いとも容易に独裁政治 (ブラック・デモクラシー) へと転落する可能性をはらんでいる事を民主主義の罠というそうです。最も民主的なワイマール憲法民主主義のなか、ヒトラーが出現したように、民衆はメディアにコントロールされ、間違ったリーダーを選ぶことがあるとのこと。今でいうと民衆主義・暴れん坊リーダー、トランプやボリスジョンソン?
普通選挙でよいリーダーを選び辛い発展途上の国ばかりの東南アジアで、先んじて開発独裁を成功させたシンガポール(言葉を選ばずいえば)は、外資や他の移民をうまく使って発展し、一定の自由を犠牲にしながら小さな後進国(開発途上国)から先進国にまで成長していったと言えると思います。
◇戦争と差別
イギリスの帝国主義時代、未開の地シンガポールに、1819年ラッフルズ卿が上陸。リー・クアンユーの祖父は、白人至上主義社会のイギリス人の下うまくやってお金を稼いでいました。
リー・クアンユーはイギリスに憧れて育ちました。裕福な祖父に育てられ、ラッフルズカレッジ(シンガポール大学)に通い英語で高等教育をうけたため、中国語はしゃべれませんでした。その後、世界恐慌が訪れ裕福な暮らしから生活レベルが大きく変化しました。
◇日本占領時代

マレー半島に日本軍が進駐してきて支配層の英国軍白人が逃げ出し、日本軍が上陸後あっという間に制圧し、英国から解放してくれる救世主と思ったのに、日本による支配は激烈を極め、処刑や拷問が行われた事が生々しく書かれています。
リー・クアンユー本人も殺されそうになりました。ある時、華人だけが集められ連れていかれ、彼は嫌な予感がし、すぐ戻ってくるといってその場を逃げました。その後残された人々は、車に乗せられ虐殺されたと聞き、彼は強烈な衝撃を受けたと記しています。
一般的に、東南アジアで日本人がどんなことをしたか詳細には伝えられていない気もします。この本には、東南アジアの目線から、従軍慰安婦問題についても書かれています。占領した日本軍の施設では、大きい板張りで外から見えない所に日本人の軍人が列をなしており、いろいろな国から連れてこられた女性が軍人にサービスをしている施設だと地元の人々は、知るようになったようです。
かつてのイギリス占領時代にも襲われるとか売春婦が集まっているとかあり、そういう治安の悪さと比べたら一つの施設を作って人が行列して並ぶ、こういう統治の仕方もあるのかと述べています。
また、その占領の3年半を忘れることができない記憶と、語っています。
◇日本に落とされた原爆について
リー・クアンユーのコメントから、―『落とすしかなかっただろう。』(引用)神風特攻隊、玉砕精神、日本軍のあまりにも激烈な戦い方を知っているから、日本軍は天照大御神のため自らの意思で降伏しなかっただろう。英国占領時代の方がよかった。
日本が負けて引き上げていったが、英国も疲弊し、シンガポールは混乱していた。彼も闇市などで生計を立てたくましく生き、日本語、中国語を生きるために学んだりしていたようです。そんな中から学んだ事は、シンガポールは植民地として搾取されてるだけだ、自分は弁護士として活躍しようと決意したようでした。
◇戦後の英国留学
日本占領時代の3年半の間棒に振ったが、ラッフルズカレッジに復学し優秀な成績(トップではなく2番)で卒業し、法学を学ぼうと英国に1945年留学し、ケンブリッジ大学に入学。卒業時のトップは、のち彼の妻となるチューという女性で、彼は守りたくなるような女性と一緒になりたくない、対等に話ができて尊敬できるパートナーを望んだと述べています。
留学時代に彼はアジア人として差別を受け、植民地のシンガポールは搾取されているのであって守られているのでは無い。植民地を脱しなければならないと強く感じ、反植民地、脱植民地、いつまでも植民地のままではいけない。弁護士になりたいという気持ちから、シンガポールを変えたい、政治家として活動しようと、一緒に留学した彼女と誓い合っていたようでした。
◇1949年帰国後

イギリス政府に対して労働者のストライキが発生し、お金をとらず労働者のために無償で弁護を行っていました。弁護士として、暴力をふるうな、合法的に対処しろと指導しており、銃を構えている軍人に対し対峙する写真が新聞に載り、大衆の中で英雄になっていきました。
国民の声を聞く事を覚え、政治活動に加わっていき、次第に支持を伸ばしてシンガポールの与党を率いるようになり、1954年中産階級とともに人民行動党を創設し、その過程で党内での華人内のグループ争いや共産主義者との闘争、インドネシアからの妨害などを克服して人民行動党は一党独裁体制を築いていきました。
◇1965年シンガポールの独立
戦後、シンガポールはイギリス直轄の植民地、マレーシアはマラヤ連合(ペナン、マラッカ、マレ半島本土)と分離されていました。その独立について当時の変遷と背景を整理しました。
| 1874年 | イギリス領マラヤ成立 |
| 1942年 | 日本軍侵略 |
| 1945年 | 太平洋戦争の終結 |
| 1946年 | マラヤ連合(マラッカ、ペナン、マレー半島)。シンガポールはイギリス直轄の自治州 |
| 1947年 | マラヤ連合の再編マラヤ連邦が発足 |
| 1957年 | マラヤ連邦独立 |
| 1963年 | マレーシア成立。(シンガポール、北ボルネオ、サラワクがマラヤ連邦と統合) |
| 1965年 | シンガポールがマレーシアから追放される形で分離独立 |
1965年の当時、マレー系と華人系の民族対立による混乱を懸念したマレーシアのラーマン首相は、シンガポールをマレーシア連邦から放り出す追放という選択をしたといわれています。

「私には、これは苦悶の瞬間である」 リー・クアンユーは独立を発表する記者会見で涙を流して語ったと言われていました(写真参考)。この独立が望んだものではなかったことが伺えます。
マレー人優遇を図りたいマレーシア連邦政府と、イギリス統治時代に流入した華人が大半を占め、マレー系・華人系の住民の平等を主張するシンガポールには、軋轢が生じていました。シンガポールが独立を望み飛び出したわけではありません。
とはいえ、
① 小さな国土
② 貿易港シンガポールはマラヤ経済に依存していた
③ 水、食料をマレー半島に依存していた
④ 歴史的にもシンガポールはマラヤの一部という認識
当時は今では想像はできませんが、シンガポールが単独で独立国家になることは非現実的、と受け止める事が自然であったようでした。
独立が発表されたとき、誰しもがシンガポールは終わった、この小さな後進国(開発途上国)がマレー半島という後背地なしにどう生きていくか、と思い、それはリー・クアンユーの思いであったようでした。
独立後のシンガポールを支えてきた政策
◇シンガポールの経済政策
以下の三つで特徴づけされているが、コロナ後、人の往来が抑制された経済活動が主流になる方向での変化にどう対応していくか?例えば、税制の優遇でシンガポールに地域統括を誘導してきた政策もメリットが全くなくなるわけではないですが、全体戦略として見直しを迫れるであろう思われます。
1.積極的な外資誘致
2.政府系企業(GLC)の存在
3.徹底した実力主義によるエリート教育
◇ シンガポール経済開発庁 EBD
以下、アドレスを参考にネットでググってもらえば、独立後EDBが指揮を執って資源もない、人も少ない小国がどのように発展したか概略はわかると思います。
https://www.jetro.go.jp/world/reports/2019/01/3ac7b183d0b49859.html
シンガポールの産業政策で重要な役割を演ずるのがEDB。シンガポール経済開発庁は貿易産業省下の政府機関で、ビジネス、イノベーション、および人材のグローバル拠点として、シンガポールが地位を促進するための戦略を担当しています。優秀な官僚ですが、お役所的ではなく、商才に長けたビジネスマンという印象です。
https://www.edb.gov.sg/ja.html
◇清潔な政府
シンガポールに関しあまり聞かないテーマと思うので、汚職とガーデンシティーについてコメントします。

「クリーン行政」といって人民行動党が1959年政権の座に就いたときから目標に取り組んだと記載があります。
多かれ少なかれ駐在員に限らず、シンガポール以外では経験したことがないと思うことが、入国審査の時の事です。旅行者が入国審査や税関で通してもらえないことがよくあったと思います。
また、マレーシア駐在中も、警察官は交通違反をするとM$50で許してくれました。シンガポールではそういうわけにはいきません。そんなことをしたら、倍返しではないが贈賄で多額な罰金を払う羽目になるので気を付けたほうが良いと思います。
閣僚、判事、高級官僚の賃金を、民間部門の収入に比例して自動的に見直す計算式に改めるよう提案したと、記述があります。別で聞きましたが「給料が十分でないから悪ことを考える。賄賂など考なくともよいレベルの給料を保証すれば、賄賂・職権の乱用など考えない」という考え方と聞いたことがあります。どう運用するか簡単ではないと思いますが、理屈はもっともと思った記憶があります。
◇ガーデンシティー
— 独立後、私はシンガポールを第三世界で突出した国にする方法を考え抜いた末、「クリーン&グリーン」つまり清潔で緑の多い国にするという答えに行き着いた。 ― リー・クアンユーコメント
- 不法屋台・白タクを町から追い出す。
- 「トロピカルガーデンシティー」 ―何百万という木を国中に植え、また、専門家2人をシンガポールの気候に似た熱帯、亜熱帯地域に派遣し、一年中花の咲く植物や木を探して持ち込んで、国の緑に加えたようでした。
おかげで、空港のイーストコーストパークウェイの歩道橋からブーゲンビリアが垂れ下がり、街路樹やヤシ、緑の草地や咲き誇る花を見ることができるようになり、緑化はもっともコスト効率のいいプロジェクトと言っています。
- 飲料水の確保のため、家庭や工場からの排水する汚水・汚物を完全に下水道に流し、きれいな雨水を貯水するためにダムを造り飲料水の量を増やす努力もおこないました。
- シンガポール川とカラン水路を浄化し、魚を呼び戻すことも行いました。3,000もの裏庭工場や家内工場を退去させ、油や汚物を取り除く排水設備を整えた集合工業施設に収容しました。5,000もの屋台はホッカーセンターに移動させました。
シンガポール川の両岸には舗装遊歩道を建設し、古い店や倉庫は修復を経て、レストランやカフェに生まれ変わらせました。社会基盤を設計して建設するという20年にわたる絶え間ない努力をつづけました。騒音問題の一つとして爆竹も禁止しました。
「新しい時代にそぐわない古い習慣は終わらせなくてはならない」と、リー・クアンユーらしくコメントしていました。
「私たちの社会は洗練された文明社会としての基準に達していなかった。―まず、国民を教育し、意義を説いた。それから説得にあたり、過半数の同意を勝ち得て、法律の制定によりわがままな少数派を罰した。こうしてシンガポールは快適に生活できる場所になった。―」
この、リー・クアンユーの強い信念が今日のシンガポールの基礎をつくり、よく言われる明るい北朝鮮、fine(罰金)な国と言われる所以であると思います。
