2019年は、ラグビーワールドカップが日本で初めて開催され、日本代表が“ONE TEAM”となって善戦し、史上初めてベスト8まで勝ち上がったこともあり、急増した“にわかファン”も コアなファンと一緒になって感動し、楽しみました。
そして2020年、今年はいよいよ東京オリンピック・パラリンピックという世界最大のスポーツイベントで、更に日本中が盛り上がることが期待されます。マラソンや競歩に留まらず、暑さ対策など何かと課題は指摘されているものの、日本人が得意とする”ONE TEAM”の精神でキッチリと運営され、歴史に残る大会となることでしょう。
1. バルセロナの印象
私がバルセロナの現地生産子会社へ赴任したのは、1992年のバルセロナオリンピックが開催された翌年の1993年9月。そこには私が抱いていた一般的なスペインのイメージ=「闘牛とフラメンコ、情熱的だが勤勉とは言い難い気まぐれな気質、経済的にも不安定でEU通貨統合への参加が難しいと考えられている国」 とは異なる風景と文化がありました。
オリンピック開催に伴う空港の整備や港周辺の再開発、高速道路の建設などにより、バルセロナはローマ帝国時代の遺構を残す路地が入り組んだ旧市街地域と、直線的な大通りにモダンな建物が並ぶ商業地域とが併存する大都市であり、古い港町の奥に潜む少し怪しげな風情と地中海の澄んだ空気感が懐の深さを感じさせました。年々海外からの観光客が増え続けているのも頷けます。

バルセロナ市旗
バルセロナでは人々はスペイン語とフランス語を混ぜた様なカタルーニャ語という言語を話し、気さくで陽気な中にも西ヨーロッパ風な生真面目さも漂わせていました。事実、スペインは当時の大方の期待(?)を裏切って経済改革を成し遂げ、1999年1月にユーロ導入参加国入りを果たしました。特にバルセロナを州都とするカタルーニャ州は、その経済力と特異な文化を背景に当時から独立の機運が高い地域でした。
近年、独立運動の過激化の影響を受けて、かの有名な サグラダファミリアが一時閉鎖され、観光客が中に入れない事態が発生したのをニュースで知り少し心配になりました。日本にはないあの鮮かなブルーの空のもとで、人々が活き活きと暮らせる状態に落ち着くことを願っています。
2. 家族帯同の駐在生活
家族とともに6年を超える駐在期間を終えて、1999年12月末に帰国したのはもう20年前のことです。赴任時に小学2年生だった長女は中学2年になり、幼稚園の年長さんだった次女は小学校6年間をほぼまるっと現地の日本人学校で過ごしました。
帰国後は長女も次女も地元の中学、高校に通い、すっかり三河弁に浸る生活の中でスペインの話題もめったにしたことはありませんでしたが、どういうわけか大学では二人ともスペイン語を学び、スペインへの短期留学もしました。
バルセロナにいた頃は日本のアニメやお菓子に飢えていて、一時帰国の際にはビデオを撮りため、コンビニではお菓子を買い込んで、「やっぱり日本はいいねえ! 」などと言っていたものでしたが、やはり子供時代を過ごしたスペインへの親近感や懐かしさがあったのでしょうか、自然とスペインへの 興味が高まった様です。
海外での生活でそれぞれの国の良さ悪さを知ったことが、何かしら彼女らの人格形成に影響し、物事を広く見て、理解することができる人材に育ってくれていれば、と思います。大学卒業後は二人ともスペイン語とは全く縁のない就職をしましたが、今でもTV番組でバルセロナの映像が出ると家内と三人で盛り上がっています。

一昨年に次女が新婚旅行でバルセロナに立ち寄った際に、私たちが当時住んでいたピソ(集合住宅)を見たいと思い、幼いころの記憶を頼りに探したところたどり着けず、日本に携帯電話で道案内を求めてきました。
私がLINEのビデオ通話を介して、「そこの角を右に曲がって30メートル位の〇〇番地の建物だよ」などと、リアルタイムで案内しながら娘夫婦が歩く映像を観て、某TV番組の如くまさに「ここが娘のアナザースカイ」なのだと感じました。
家内は、幼い子供二人を連れての初めての海外生活に戸惑いながらも、バルセロナでの生活を前向きにとらえて乗り越えてくれました。毎日の生活に必要な買い物のために必死でスペイン語を覚えて、語彙力は私よりも遥かに上達していました。
今は日本人が営む豆腐屋さんもあるそうですが、当時のバルセロナには日本食を扱う店が1件のみでした。日本食材の入手もままならない中、家内は現地で手に入るカリフォルニア米や、メルカド(市場)で買った魚介や野菜で工夫しながら料理をしてくれました。
バルセロナでの生活に慣れてくると、家内が日本人学校に通う子供の関係で知り合った他社の駐在員の奥様達と、たまにランチや習い事を楽しんでくれていたのが、多忙な私には有難いことでした。
帰国の際に家内の希望でガリシア焼きの“SARGADELOS”の食器を持ち帰り、今も毎日の食事で使っています。20年間毎日使っていてもガリシア焼きの濃いブルーは色褪せることなく、「床に落としたくらいでは割れないのがいい」と家内は気に入っています。
家族が現地での生活に馴染んで健康に暮らしてくれること、またその為の環境作りに企業や出向者本人が努力することは、海外駐在を意味あるものにするための必要条件の一つであると思います。
![]() ガパオライスも“ガリシア焼き”で |
![]() “ガリシア焼きの牛の置物” |
3. 現地スタッフの成長に驚きと喜び
帰国後はバルセロナとは仕事の繋がりがなかった私ですが、一昨年、昔の同僚からメールが届き、駐在中私のスタッフとして6年間共に仕事をしたM君が現地法人の社長に昇格することになった、と知らせてくれました。
海外子会社の現地スタッフが長年の勤務を経てそこのトップになることはかなりレアケースであり、私はたいへん驚くとともに、懐かしさのあまり即刻M君に祝福のメールを打ちました。

前列中央がM君、その後ろが私
M君、いや今では40代半ば過ぎのM氏は、大学で経済を学んだあと、2年間軍隊で経理の仕事を経験し、その後私の前任者が採用していました。
彼は20代後半で、真面目で計数能力や理解力が高く、日本人が話すつたない英語での“日本式経営”を理解し、馴染もうと努力してくれました。スペイン人らしくない少し控えめで温厚な性格の彼は、現地スタッフ仲間から時々いじられながらも皆から慕われている様子でした。
当時の会社方針として、“モノの現地化”から更に“人の現地化”を目指していた我々は、各部門のキーパーソンを将来の管理者として育てるべく、“人材育成10年計画”を作成し、代々の駐在員に引き継ぎながら、継続して現地スタッフの育成を進めようとしていました。
私は、M君はマネージャーにはなれる人材だと確信して後任者に託し帰国しましたが、まさか現地法人の社長になるまでに成長してくれるとは夢にも思いませんでした。本人の資質と努力はもちろんですが、代々の駐在員の継続的な指導や、日本本社のサポートによる賜物だと思います。
日本と比較して人材の流動性が遥かに高い海外においても、長期目線での計画的、継続的な人材育成と、それを支える人事諸制度の整備は、海外事業を成功させる重要な要素だと言えるでしょう。
4. バルセロナ再訪の夢
昨年、サッカーのJリーグから久保建英選手が、18才になってスペインの名門サッカーチームのレアルマドリッドに移籍し、大きな話題になりました。
もともとはFCバルセロナのジュニアチームに所属していたこともあり、将来はメッシ選手の様なバルセロナのスター選手になることが期待されていたので、ライバルチームへの移籍は少々拍子抜けでした。当面は他チームにレンタルされる形ですが、いずれにしても日本の天才児がいよいよ本場でのデビューを飾り、今後の成長と活躍が楽しみです。
帰国して20年の間、公私ともにバルセロナを再訪する機会がありませんでしたが、ここ数年の間に、日本企業がFCバルセロナのスポンサーになったり、FCバルセロナの拠点スタジアムである“カンプ・ノウ”の改修設計を日本企業が受注するなど、日本と関わる話題が続くとやはり気になります。
家内とは二人とも完全リタイアしたらスペイン旅行をしたいね、と話しています。その際には、是非M氏をはじめ、今は立派な太ったオジサン、オバサンになっているであろう当時のスタッフと会ったり、新しい“カンプ・ノウ”でFCバルセロナとレアルマドリッドの試合を観戦したりしたいと思います。


