はじめに – 私のスリランカ経験

私は、1984年から3年間のスリランカ駐在を含み1990年までの5年余りスリランカ事業を担当以降、現在まで度々スリランカを訪れている。

スリランカはインド亜大陸の南端に位置する小さな島国ながら、インド洋の極東と中近東および欧州をつなぐ海洋の重要拠点として地政学的にも歴史上列強に翻弄されてきており、現在でも中国の戦略的拠点として利用されつつある。

2009年春に内乱の最後の攻防戦が行われているスリランカを、家内と一緒に2週間かけて北部も含めて歩いてきたときには、首都圏のコロンボの中では新しい商業施設やショッピングモールなどの施設ができていたりのことはみられたものの、25年前に最初に訪問した時と変わらぬ時間が止まっているような印象を、懐かしい思いで訪れてきた。

そして1年あまり前に再び、コロンボから北部の歴史遺産のアヌラーダプラまでを2週間かけて企業訪問を含めて地方都市を訪れた時の驚きは大変なものでした。コロンボ市内に林立するクレーン群と町の再開発。空港からコロンボまでの真新しい高速道路。北部の古代遺跡群は以前、どこを訪れても静かな心落ち着くところであったものが、中国人観光客をはじめとして人であふれかえっている。わずか5年で過去40年間以上の大変化が起こっていたのです。

以下最近のスリランカの状況につき、紀行、見聞を含めてお話をさせていただきます。

スリランカの概略歴史

セイロン島(スリランカ)地図:
面積6.5万㎢。人口2,000万人余のインド亜大陸の南端に浮かぶ島。

スリランカは2500年の歴史を持つ由緒ある国であり、最初の王国であった北部のアヌラーダプラは、インドで起こった仏教が最初に伝わったところで、現在では仏教がインドではすたれてしまっていることから、今ではこの地が仏教徒の訪問するメッカとなっている。

BC5~10世紀にアーリア系民族が住み着きこの地にスリランカ最初の王朝が出来、インドのマウリア王朝のアショカ王の時代(BC3世紀)にアショカ王の王子のマヒンダがスリランカに仏教を伝えこの王国は壮大な仏教都市として栄えていた。

下の写真は、BC3世紀に建てられた仏塔。現在でも75メートルの高さがあるが、当時は100メートルを超える高さがあったとのこと。この周囲には5,000人を超える僧侶が生活をしていた僧院をはじめとする建物群の遺跡。ユネスコが発掘調査をして、整備されて仏教都市遺跡公園になっている。また当時からのお寺の庭に、マヒンダが持ってきたといわれる菩提樹の古木があり、現地の仏教徒のご神木としてあがめられている。

BC3世紀に造られた、仏僧の修行の場所であったイスルムニヤ精舎

日本では縄文時代の歴史的に原始のころ、この地でこのような壮大な文明が栄えていたのを見ると刮目に値する。機会あれば皆さんぜひ訪れていたいただきたいところです。

ちょっと一言:Sri LankaとCeylonについて

獅子の子孫という伝説のあるVijyaya王(ヴィジャヤ王BC5世紀)を、このアヌラーダプラ地区のミヒンタレーを首都とした最初の王国統治者とするので、この国は Singhara De Viva (シンハラドヴィヴァ=獅子の国) と呼ばれていたが、当時から盛んであった中東との交易で訪れて滞在したアラビア人(ムーア人)が、これをセレンデイープと訛って呼称していた。Serendip (セレンデイップ)という言葉は英語で、びっくりする発見などの意味に使われる。

さらに13世紀の大航海時代にマルコポーロがこの地を訪れて以来ポルトガルの寄港地となり、16世紀初にはポルトガルの植民地となり、ポルトガル人はセイラーンとこの地を呼称した。

その後17世紀にオランダが征服してポルトガルを追い出し植民地とし、17世紀の終わりから18世紀の初めにイギリスがオランダを追い出して植民地化し、これが1948年まで続いた。イギリス人はこの地をポルトガル呼称からCeylonと名付けた。

150年以上にわたるイギリス植民地時代を経て1972年に完全にイギリスから独立時に、この国を Sri(輝かしい、厳かな、華やかな、の意味で名詞に付ける尊称接頭語)Lanka (光り輝く島の意味)とした。

マウリア王朝時代にわたってきた島民は大半がアーリア系の民族で、獅子の子孫の意味を持つSinghara 人が人口の70%を現在でも占めている。

スリランカはイギリスの統治下で150年余。このため現在でも英語はシンハラ語と並ぶ公用語で、国民は普通に英語を使う。

政治制度や社会的制度はイギリス式であるが、ここを訪問して社会と接すると、形式は先進国のイギリス式をあらゆるところで使うが、外国人がこれを体験すると、中身が伴っていないところがあり、フラストレーションがたまることがよくある。

スリランカは東西を結ぶインド洋の地政学的な要衝

中世の大航海時代から植民地時代以来、現在に至ってもこの島は地政学的にも重要な位置を占めているために、列強諸国に翻弄される歴史をたどっている。

戦後に独立をしたものの、イギリス時代に作り上げられてきた社会、経済インフラにごく最近まで依存してきた国です。鉄道網はイギリス時代からほとんど延長されず道路網もごく最近の高速道路建設開始まではほとんど発展していませんでした。

経済基盤は、ごく最近までイギリス人が作り上げた、ココナツプランテイション、ゴムプランテイション、肉桂(シナモン)などをベースの農業中心の国であったのです。OECD国から「後期発展途上国」の位置づけに置かれてました。

独立後のスリランカ政府のシンハラ人中心の社会制度建設によって、北部中心に居住するタミール人との間で軋轢が発生。1980年代初めにタミール人との間で内乱が始まり、乏しい国家予算の20%以上が軍事費に費やされ、国家計画や経済政策などに使う金はなく、インフラ整備は先進国からのODAにもっぱら頼るだけの状態が2009年内乱終結まで続いたのです。

コロンボの至る所で進行する高層ビル建設と林立するクレーン群

タミール勢力との和平後、スリランカ社会は安定し その後短期間で急速な経済発展を遂げていくスタートとなりました。 

現在コロンボ地区の再開発はもちろんの事地方にも外国からの投資が押し寄せて、交通インフラの近代化が急速に進みつつあります。前回訪れた時のコロンボに林立するクレーン群と進行する高層ビルの建築の光景は驚くべきものでした。

 

内乱終結後のスリランカの経済成長

スリランカの経済規模をGDPで概観してみます。わたしが駐在していた時のスリランカのGDPはわずか80億ドル(約1兆円)、2000年には130億ドル。

内戦が終結した2009年は245億ドル(およそ2兆円)であったものが、この年から毎年15%を超える実質経済成長率を続け、2016年で名目830億ドル(約9兆円)となっており、一人当たりのGDPでも1987年時に435ドルであったものが今日現在4,000ドルをこえて、中進国の仲間入りをしてきつつあります。

インドやパキスタンの倍以上の一人当たりの所得ですが、60倍の人口を抱えるインドは経済規模がはるかに大きくて、米国同様に一握りの人間が多くの所得を得ている状況と比較すると、スリランカには財閥といわれる大企業の存在はなく、一握りの人間が国民総所得の大部分を占めるという状態にはないので、一般国民の平均的な所得は南アジアの中では一番高いといっても過言ではない。

中国の一帯一路戦略に翻弄されるスリランカ:

左の地図をご覧ください。

中国はその巨大な経済力に物を言わせて、1兆ドルに上る対外経済支援金を使い、南シナ海からインド洋をまたいで欧州につながる海洋ルートと陸のシルクロードで中央アジアから欧州につながる陸路での各国に対するインフラ支援で アジアにおける覇権を実質的に取得すべく着々と戦略を進めています。

借款を提供して、ミャンマーダウェー港、バングラのチッタゴン、スリランカの南部のハンバントータ港の建設、パキスタンのグワダル港。

中でもスリランカのハンバントータ港はアジアでも最大規模のコンテナヤードを備えて、さらには 軍の大きな艦隊が寄港できる設備を備えています。これらはすべて中国の政府援助で建設されたもの。海洋進出を進める中国は近いうちにこのハンバントータ港を拠点にしてインド洋進出を狙っています。

これを中国はString of Pearls(真珠の首飾り)戦略と称して、自分たちが進出するための港湾整備であるわけです。スリランカは前ラジャパクサ大統領が自分の出身地元に中国からなんと年利6.3%の借款でハンバントータ港を建設。当たり前のことであるが、この港湾需要の少ない港は稼働率50%を切り、金利を支払うだけの収入さえなく、結局この港湾の株式を中国に引き渡し99年間の運営権利を中国が取得。まさに中国の思うつぼにはまって居る。

これに加えてスリランカ第二の国際空港を、同じくハンバントータ県のMattalaに「マッタララジャパクサ国際空港」を建設。約3億ドルをかけて2013年に開港。うち2億ドルは中国からの融資資金。なんと世界最大の旅客機A380も発着できる設備!誰がこんな大規模国際空港を必要としているのか?

コロンボの北側のバンダラナイケ国際空港でさえ十分な旅客および貨物物流の余裕を持っており、この空港の拡張も計画進行中で、コロンボまで高速道路もできて20分の立派な国際空港がある。

当然ほとんど旅客、物流需要はこの新国際空港にはない。この新国際空港に乗り入れる近隣諸国の航空会社はわずかである。港湾と同じく、収入から借入金返済どころか金利さえはらえない!2017年現在「世界で最も暇な国際空港」といわれており、ギネスに申請すれば間違いなく認定される。もちろんスリランカ政府がこんな不名誉な申請をするわけがなく誰かが申請を行えばその人は間違いなく殺されてしまうであろう。

当時のラジャパクサ大統領はこのハンバントータ県の港湾、国際空港、およびコロンボとを結ぶ高速道路を基本インフラをセットとしてこの地に「貿易、投資経済特区」を作り世界中から投資を呼び込むバラ色のプロジェクトを実行したのですが。今後このハンバントータ県の経済インフラがどうなっていくか?興味あるところです

南アジア最大のハンバントータ港
閑散としているハンバントータ県マッタララジャヤパクサ国際空港ロビー

これらのインフラを作ったラジャパクサ前大統領。10-20年後を見据えたプロジェクトの実行であったとのちの世で評価を受けることを期待したいところですが。

中国はさらにこの港や空港からコロンボまでの高速道路の建設も請けおったり、バンダラナイケ空港とコロンボを結ぶ高速道路の建設でもその資金の85%が中国からの借款で賄われている。スリランカの現在中国からの債務は何と80億ドル!スリランカのGDPの1割に上る中国からの借金。国営企業売却などの資本収入以外の税収などはわずか70億ドル前後のスリランカ。返済できるわけがない。

中国のやり方は「財政難の途上国がはまるインフラ融資の罠」(インド政策研究センター:ブラマーチェラニ氏) といわれるもので、中国がアジアの弱小国においしい話を提案するやり方はスリランカだけでなくミャンマー、インドネシア、マレーシア、ラオスなどでも行っていることはご存知の通り。

最近では財政難にあえぐEUのギリシアの「世界で40位のピレウス港。」中国は圧倒的資金量でこのピレウス港全体を買収。

中国の戦略は中国から欧州までの海路の要所を抑えることにより、特に仮想敵国であるインドに対してインド洋への艦隊進出のかなめとして、上図の真珠の首飾りでお分かりの如くスリランカは最重要拠点となるわけです。

チェラニ氏の言葉を借りると「大規模インフラ建設プロジェクト支援後、それがうまくいかないほうが中国に都合がよいのである。」「国が小さくて債務負担が重いほど、プロジェクト権利を中国に売らざるを得なくなる」わけです。

一言:

2015年大統領選挙で敗退するまで9年間準独裁的政権を維持していたラジャパクサ大統領は、現在新政権で汚職関連の調査が行われている。元大統領はこの9年間の国のインフラつくりで中国べったりで、先述の如く巨額の借款プロジェクトでどれだけ彼は個人的に潤ったのか? 

中国政府は「中国はスリランカの要請に基づいてプロジェクト提案と必要資金の投資や借款を提供しただけであり、そこから汚職でどれだけの金が動いたのか、それはスリランカ国内の問題であり、中国の感知するところではないし非難されるいわれはない」と声明を発表してうそぶいている。

コロンボPort cityプロジェクト:

埋め立て工事が進行するポートシテイプロジェクト

私が1年余り前に訪れたコロンボ。大学の先生方や学生のビジネス研修旅行のアドバイザーとして同行。イギリス時代の官庁街、ペッタ商業地区およびコロンボ港にある尾道造船のコロンボドックヤード見学後、その南側にあるゴールフェイス海岸公園でインド洋に沈む美しい夕日を見ようとこの海岸公園を訪れてびっくり。

再開された大規模埋め立てプロジェクト。中国の建設企業が行っている。

この公園の北側に無粋にも大規模な埋め立て工事が進行中。「これは何を作ろうとしているの?」と地元の人に尋ねたところ「中国がPortCityプロジェクトを進行中です」との事。

またもや中国!いろいろと調べてみるとこのポートシテイプロジェクトは2014年に中国習近平主席の肝いりで始まった。14億ドルの予算でコロンボ港の隣に233ヘクタール(東京ドーム50個分)をうめたてて商業施設やなんとF1サーキットまで建設するとのこと。

シリセナ新大統領は就任後2016年初めにこのプロジェクトの中止を「環境破壊が引きおこされる。また経済的に採算は合わない」として中国側に中止通告を行った。

ポートシテイ完成のイメージ図

しかし、先ほどのチェラニ氏の言葉を引用すると「気がついた時にはもう手遅れだ。」「財政危機に陥った国に中国はプロジェクトの権利の過半数を前渡しで求める。しかも確実に返済ができない仕組みで返済の予定変更と引き換えにさらなるプロジェクト契約を要求してくる。債務危機は永遠に続くことになる。」

シリセナ新大統領はいったん中止通告をしたものの、それは遅すぎたのである。先にも述べました如く、スリランカ政府はすでにデフォールト寸前の財政状態。彼は返済を迫る中国政府に対して、再び中国を受け入れる以外の選択肢はなかったのです。

一方では スリランカは民間投資も活発で、海外からの投資も拍車がかかってきており、先にあげたコロンボの建設ラッシュの写真の如くコロンボは民間資金で大規模な再開発が進行中。

仮にここまでの5年間の如く引き続き投資資金が入り続け、順調に経済発展が継続するとすると、10~20年後にはスリランカの経済規模は現在の3~4倍に拡大し、結果政府の債務負担の割合は小さくなってくる計算になるが、財政赤字と、対外収支がマイナスの継続により、ルピーはさらに下落する。結果対外債務も同じく膨らんでいくことになり苦難は続く。

100年余り前にイギリスやポルトガルが香港やマカオを99年間の貸与で権利を与えて20年ほど前に中国に返還されたが。この99年間で 香港やマカオは大繁栄を遂げて、返還後、現在中国にとって巨大な経済利益をもたらしているが、スリランカもこれらのインフラが将来に向けて経済発展に寄与するわけで、中国にすべて借金のかたで国外に持っていけるわけではなく、当面は中国の覇権戦略に利用されるとしても、10~20年後には国家経済に寄与するようになり99年後にスリランカの大きな資産として返還されることを願ってやみません。

以下。筆者が前回四日市大学経済学部の先生方や学生とスリランカビジネス研修旅行で訪れたところの写真をご覧ください。

ジェトロコロンボ所長から「スリランカ投資環境」の説明を受ける一行。
コロンボの東側の貿易特区にあるYKKのファスナー工場訪問
かつての宗主国イギリスの無償援助で1984年にエリザベス女王を迎えて開所式を行った、スリランカ中部のキャンデイ地区にあるスリランカ最大のダム(高さ122M,幅520M)を
コロンボドックヤードを眺望する筆者と尾道造船社長
尾道造船のコロンボドックヤード
スリランカ中部のマータレーにあるノリタケの食器工場訪問

私の愛するスリランカについて書き始めるとあれもこれもとキリがないが。スリランカが当面順調な経済発展が加速する中で今一番注目の的となっている「中国の進出」に焦点を当ててみました。もしまた機会あればスリランカ人、スリランカ社会のあれこれについて書いてみたいと考えます。

蛇足ですが戦後の日本とスリランカの関係に大きな影響を及ぼすエピソード:

日本が第二次世界大戦で負けて米国の占領下におかれて、1951年にサンフランシスコ講和条約締結後、世界で一番に日本と外交関係を結んだのはスリランカです。

この講和条約が結ばれて晴れて独立国となる日本ですが、この時までには連合国側のソビエトや中華人民共和国、米国との間で日本の分割統治を巡る激しい交渉が行われていたことはあまり知られていません。東北、北海道をソビエト領土、中部を米国、そして西部を中国に分割されて統治されようとしていた日本。

当時のスリランカの大蔵大臣でのちに初代大統領となるジャワワルデナは日本の独立に向けてこのサンフランシスコで演説をしました。「。。。。。我々は日本に損害賠償を要求しません。我々は仏陀の言葉を信じています」。その言葉は、「憎しみは憎しみによってやまず、ただ愛によってのみやむ。。。中略。。。これが我々を数百年の間共通の伝統と文化で結びつけています。。。。中略。。。。我々は日本人に機会を与えなければなりません」

この演説で日本は「ドイツや朝鮮半島の如く分割統治されないで」世界の一員として再スタートができたわけです。独立にあたり、彼が実際にどれだけの力を連合国側で果たしたのかは知る由もありません。筆者の推測ですが、日本の統治についてソ連と中国の共産圏の要求を米国は強い意志で跳ね返して、最終的に共産勢力の進出をあきらめさせたというのが実際だと考えます。

しかしながら、歴史的な事実として「スリランカが日本独立の名誉を与えた」ことは間違いありません。以降日本は、スリランカに対する恩義の表れとして、毎年有償、無償の経済援助を今日まで1.1兆円を超える実績を上げており、スリランカはとても親日的な国と国民です。

最後に、ノリタケスリランカの社長である島谷氏にはこの原稿を書くにあたり多くの資料を提供いただきました。感謝申し上げます。