今回のテーマが、「駐在した国の魅力・特徴、日本との関係」と言う事で、まず魅力について沢山ありますが、身近なところでタイに駐在してこれはタイの魅力だと感じたことを、仕事以外で2項目について紹介したいと思います。

日本との関係については、山田長政に関連する部分について記したいと思います。

1.タイの魅力について

① タイの魅力 <その1> ゴルフ

タイ駐在が決まって事前確認のため初めてタイに出張した時に、“タイファン”になった事を思い出します。

タイに駐在するなら土・日は時間が余るので、「ゴルフクラブくらいは持って行った方が良いよ」と言われ、その友人から古いゴルフクラブを譲り受けました。特にその時はゴルフについてそんなに興味があるわけではなかったが、やはり何かあった方が良いかと思って、ゴルフクラブとテニスラケットを持って行きました。テニスの方はやはりタイは暑くて大変だったので、ゴルフを始めることにしました。ここから私のゴルフ人生が始まりました。

コースに出るためにはまず練習をと思い、練習場に行きました。練習場も今は日本式に自動で練習ボールがセットされますが、当時は打つたびに前に座っている子供がボールをセットしてくれる方式でした。最初のうちは子供が目の前に座っているので気を使っての練習でしたが、そのうち慣れてきました。

何とかコースでプレーできる状況になったので、同僚の誘いもありゴルフ場へ行くことにしました。タイのゴルフ場はワンバック・ワンキャディー(東南アジアでは一般的)です。これが大きな魅力です。キャディーさんは気立てのよい可愛い子が多かったように思います。

プレイヤーがゴルフボールを持つのは、ティーショットの時にボールをセットするときと、グリーンでカップインした時にキャディーさんからボールを受け取る時くらいです。セカンドショットを打つ時は、常に横にいてクラブを渡してくれます。グリーンに乗れば綺麗にボールを拭いてセットしてくれて、至れり尽くせりでした。

タイでゴルフを覚えた私は、ゴルフはこのようにプレーするものだと思い込んでいましたので、駐在が終わって帰国後、日本でプレーをした時に様子が違って大きなギャップに戸惑ったのを覚えています。日本では当たり前のことですが、例えばグリーンでは自分でボールをセットすること、自分でフェアウェイでアイアンを持ち運ぶ事等・・・です。

タイの気候は5月~10月が雨季、11月~4月が乾季となっており、雨季の天候が心配かと思いますが、スコールは午後になる場合が多く、日本の梅雨とは違い雨が降る時間は短いのが通常です。1年中ゴルフが楽しめます。6時半ころからプレーが出来る明るさになるので、雨季は出来れば朝早くからのスタートにした方がより良いでしょう。

キャディーさんの事で付け加えます。技術的には日本のキャディーさんと同じように思ってはいけないようです。プレーする際のお手伝いさんと思ってラウンドするといいでしょう。一部のゴルフ場ではキャディー教育もしているようですが、殆どのゴルフ場ではキャディー教育はされてないようです。自分の経験などを積み重ねているのが現状のようです。

今もタイに行った時にはゴルフを楽しんでいます。3人(バッグ係、椅子係、傘係)までキャディーを付けることが出来るので、3人キャディーでプレーしてみました。待ち時間がある時は肩マッサージをしてくれるなど殿様気分で、いい経験になりました。

ゴルフ場もバンコクから30分以内で行けるコースが20ヶ所、1時間位まで範囲を広げると50ヶ所位存在しているようです。

プレーが終わりクラブハウスで食事をしたあとのタイ古式マッサージのコースは最高です。

クラブハウスの食事も、タイ料理、日本料理、西洋料理が用意されているのが普通のようです。ビールを飲みながら美味しい料理が楽しめます。

料金ですが、バンコクのプレーの場合、グリーンフィー2,500~4,000B(バーツ)、キャディーフィー300~500B、カート代(1組1台)600~700B、キャディーチップ300B位のようです。

機会があれば、タイの魅力1バック1キャディーでプレーを満喫して下さい。

② タイの魅力 <その2> タイ古式マサージ

「世界で一番気持ちいいマッサージ」とも言われているタイ古式マッサージは、タイ伝統医学の一つです。その歴史は古く、仏陀の主治医だったシヴァカ師が開祖と言われ、約2500年前に仏教とともにタイに伝わり、現在まで受け継がれています。

タイ古式マッサージは、頭の先からつま先まで全身くまなくマッサージを行います。タイ古式マッサージと指圧で行う一般的なマッサージの違いとして、タイ古式マッサージを行う施術者は、手のひらやひじやひざ・足など体のいろいろな部分を使い筋肉を刺激していきます。「セン」と呼ばれる人体を流れるエネルギーラインをゆったりとしたリズムで刺激し、こり固まった筋肉を緩めて行くことにより、血流が促され、自律神経のバランスが整い、人間が本来持っている免疫力や自然治癒能力を高める効果があるとされています。

タイ古式マッサージを受けている時、脳内はアルファー波で満たされ半覚半眠の状態になり、精神が安定し、心身共にリラックスしていきます。タイ古式マッサージは「世界で一番気持ちいいマッサージ」と言われています。

施術の流れは、はじめにゆったりとしたTシャツのようなものとタイパンツに着替えてフットバスと言って小さな盥(たらい)のようなもので足を清めて、仰向きのマッサージ → 横向きのマッサージ → うつ伏せのマッサージ → 仰向きのマッサージ(2回目) → 肩、首、頭のマッサージ → 座位のマッサージ → ストレッチで身体全体を大きく伸ばして終了です。その後、ハーブティーのようなアフタードリンクです。

時間は上記の全身マッサージ2時間コースのほか、全身マッサージ1時間コース、足つぼマッサージ1時間コース等があります。

バンコクの料金相場はインターネット情報によりますと、全身マッサージ2時間コース400~600B、全身マッサージ1時間コース250B、足つぼマッサージ250Bと言ったところのようです。チップは2時間コースの場合100B、1時間コース50B位のようです。

私はゴルフの後など、2時間コースのタイ古式マッサージでリラックスするのが至福の時間でした。

友人グループで一緒に行きましたが大好評でした。

2.タイの歴史と日本人

約400年続いたアユタヤ王朝、そのアユタヤの記念公園に「アユチヤ日本人町の跡」の碑などが建っており、日本の旅行会社がこの公園をパッケージツアーのコース(オプション?)に入れているようです。案内人が駐在しており、資料館には江戸時代に日本から送られてきた親書等が展示されているようです。その他に朱印船の模型、山田長政の像、映像の説明、日本庭園などがあるようです。

日本人町は14世紀中ごろから18世紀頃まであったと言われています。最盛期には1,000~1,500人の日本人が住んでいたと考えられています。尚、「暹羅国風土軍記」の資料では、寛永期ごろのアユタヤ日本人町の人口を8,000人と見積もっている。アユタヤの日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の奴隷などで構成されていた。

今をさかのぼること350年以上前に、タイを舞台に活躍した日本人「山田長政」について、振り返りたいと思います。

① 山田長政の生い立ち

山田長政の素性については、はっきりとしたことはわかっていない。生まれの国も、駿府国と言われたり、駿河と言われたり、伊勢の生まれと言う説もあり、さまざまな説が取沙汰されているようです。駿河沼津城主大久保治右衛門の駕籠舁き人足、その後駿府馬場町商家の丁稚奉公に入っていた事実だけは確かなようです。

駕籠舁きも商人も職人もやってみたが、どれも長続きしなかったらしい。青雲の志を抱く彼にとって、利にあざとく動き回る商売や、堅苦しい仕事は性に合わなかった。そろばんではなく槍や刀を持って大暴れし、一国一城の主を夢見る昔ながらの武将肌でした。

残念ながらその当時はすでに徳川の世となり、人々は太平を謳歌していた。そんな刺激もなく窮屈な世の中に背を向け、長政は海外雄飛を志す。ここから武士として生きたかった男の、壮大無比なヒストリーが始まったのです。

② シャム(タイの旧名)で破格の待遇を受ける

長政が渡った頃のシャムの首都は、アユタヤにありました。当時、名君と呼ばれるソンタム王の時代で、長政はソンタム王の厚い信頼を得て日本義勇軍の総司令官の役に任じられました。当時のシャムは内外で多くの紛争を抱え、戦いの絶えない情勢にありました。数百人の日本軍兵士から構成される日本義勇軍は、関ケ原の戦いや大坂の陣で活躍した武士浪人たちが顔をそろえる精強な軍隊で、普段は貿易商として活躍する彼らは、ひとたびシャムで戦いが起こると国王の依頼で軍を編成し、勇敢に戦いました。

長政は日本義勇軍の将軍として破竹の活躍を続け、元和7年(1621年)にはオーク・クン(少尉・中尉級)、寛永元年(1624年)頃にはオーク・アロン(大尉・少佐級)、さらに寛永3年にはオーク・ブラ(大佐級)に、寛永5年頃には軍人の最上級の位であるオーク・ヤー(大佐級)に昇進。陸軍大臣を除いては、シャムでもっとも偉い軍人にまで上りつめました。

 

③ シャム国王の後継者争いに巻き込まれる

国民の信望厚かったソンタム王が跡継ぎを決めないまま逝去し、それによって国政の実権を握り、血みどろの権力闘争を招いたのが、国王の従弟だったオークヤ・シーヲラヲングでした。

跡継ぎには長政の推すソンタム王の王子ジェッタが王位に就きましたが、ジェッタは当時まだ15歳で、国政を司るほどの力量はなく、そこでオークヤ・シーヲラヲングが後見人となって実権を掌握しました。

国王の後見役として意のままの権力を振るうオークヤにとって、何といっても邪魔な存在は長政でした。宮中の大臣はオークヤの顔色を窺って意見を言わないのに対し、長政だけは敢然とオークヤの暴政に異を唱えサムライの矜恃を見せ、さすがのオークヤも、シャム国民の人気が高く、絶大な勢力を誇る長政と真っ向から対立するのは賢い選択ではないと考えました。

そこでオークヤは計略を巡らし、アユタヤから遠く離れた地方の分国へ、「不穏分子の鎮撫」と言う名目で長政の派遣を決定。そこはマレー半島東岸に位置するリゴールと言う地で、地政学上、他国と国境を接する重要拠点でした。

かくして、長政は外国人でありながら、シャムの要衝の地リゴール総督となりました。

④ 非業の死

オークヤの狙いは、目の上のたんこぶである長政を遠い僻地に追いやることで、宮廷で思いのままに権力をふるう事でした。この小賢い日本人さえいなくなれば、自分に逆らう者は現政権においてひとりもいない。そんな陰険な野望と計算が権力者の中で働いたのです。

また、長政が赴任したリゴールと言う場所は、現地住民が不穏な動きを見せ、いつ反乱が起きてもおかしくない情勢でした。つまり、統治の難しい領地へあえて赴かせ、反乱軍との衝突であわよくば長政が戦死することを願っての計略でした。

しかし、そんなオークヤの企みをあざ笑うように、長政の率いる日本義勇軍はリゴールで起きた反乱もあっさり鎮圧してしまい、これまで平定できなかった地域を、長政はやすやすと征服したのです。

オークヤにとって、長政はいよいよ葬らねばならぬ存在に映り、このまま彼の武名と業績、名誉が拡大し、その名が天下に鳴り響けば、自分の地位は安泰ではいられない。オークヤは手柄を立てた長政を宮殿に招き、美女や豪華な食事、酒をふるまっておおいにもてなしました。長政はふるまわれたワインに毒が入っていることに気付かず、それを口にしてあえなく息絶えたのです。41歳の若さでした。

長政の最期については、諸説あるようです。戦傷への膏薬と称して塗られたものの中に毒が入っていたと言う話も伝えられており、真相は定かではないようです。いずれにしても、長政はリゴールの総督になった1年後の1630年に亡くなったと考えられています。

長政は、シャムに渡って高位高官に上りつめても、祖国日本を忘れなかったようで、アユタヤ朝へは江戸幕府からたびたび使者が派遣されていましたが、長政は江戸の使者を丁寧にねぎらい、幕閣の土井利勝へも書簡や金品などを送った記録が残されています。また、駿府にある浅間神社に、戦艦をあしらった絵馬を奉納しています。残念ながら、天保8年の火災で焼失してしまいましたが、その写しが今でも大切に所蔵されています。

長政が去った後のアユタヤの日本人町は、殺された長政を慕う日本人たちの復讐を恐れたオークヤによる弾圧の憂き目にあい、ある者は抵抗して闘い、ある者は国外へ逃亡するなど、混乱の様相を呈しました。国王の号令のもと、日本人町の再建が図られるも、かつての盛隆を取り戻すのは難しく、次第に衰退の一途を辿りました。

そして、日本で発令された鎖国令が決定的となり、完全に母国との連絡通路が途絶。日本との貿易による成形が成り立たなくなり、アユタヤから完全に日本人の姿が消えてしまったのです。

おわりに

タイと日本の関係は、貿易、投資、経済協力、国際協力、観光、文化等々お互い重要なパートナーであり、世界情勢も変わって行く中、今後も関係はますます深まって行くものと思います。

山田長政の足跡を振り返って、「共存共栄」、「WIN-WIN」の関係をどのように維持・発展させるかについて、その時代にあった道を常に模索していくことの重要性を感じた次第です。                   

【参考資料】
 一般財団法人海外職業訓練協会発行 「タイの人々」
 Wikipedia アユタヤ日本人町 山田長政
 戦国武将列伝